■地域の人々と歴史を見守る大きなクスノキ
妙見宮(八代神社)は、中国から亀蛇に乗って海を渡り、八代に来て仮座した妙見神が祭られている神社です。山中に上宮跡、山麓に中宮跡があり、上宮(じょうぐう)・中宮(ちゅうぐう)・下宮(げぐう)の三社で構成されています。現在、下宮が残され、地域の人々から「妙見さん」と親しまれています。下宮の境内内にどっしりと構えるクスノキは、800年もの間、地域の歴史を見守り続けてきました。
八代は、昔から外に開けた地域で、海外の文物を受け入れてきましたが、「妙見伝説」も中国から海を渡って来て伝説として残ったのでしょう。
この八代の歴史に、相良家は大きくかかわります。相良家の勢力が最も拡大したのは、相良義陽のころで、本拠地の球磨(くま)だけでなく、八代、葦北(あしきた)、さらには大隅国大口、日向国の一部にも進出しました。義陽は島津氏との最前線である大口城をめぐり何度も戦いましたが、永禄12年(1569)の砥上合戦で敗北し、大口城を失いました。その後、義陽は島津義久の猛攻におされ、水俣、葦北と次々に領地を奪われます。天正9年(1581)降伏した義陽は、島津義久に阿蘇氏攻めを命じられます。義陽は阿蘇氏の軍師である御船城主甲斐宗運とお互いに攻め合わないことを約束していましたが、島津氏の命には逆らえず出陣し、宗運の奇襲に遭い討ち死にしました。その出陣の折、戦勝を祈願した妙見宮で、出陣を止めるかのように戦旗がからまったのが、下宮にあるこのクスノキです。
11月23日に行われる「八代妙見祭」は九州三大祭りの1つに数えられ、神事の神幸行列は県の重要無形民俗文化財に指定されています。寛永9年(1632)八代城に入った細川忠興(ただおき)公は、妙見宮を崇敬し豪壮な神幸行列を復興させました。偶然にも妙見宮の紋と細川家の紋が同じだったのがきっかけといわれています。これが現在行われている盛大な「八代妙見祭」の始まりと伝えられています。「妙見宮の樟」は祭りとともに、人々に大切に奉られる巨樹です。
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