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  老樹名木詳細
 
幣立神社の森(へいたてじんじゃのもり)


■壮厳な森の由緒ある神社
 幣立(へいたて)神社は、阿蘇南外輪山のなだらかな斜面の東南部が九州中央山地の北端に接し、西に流れて有明海に注ぐ緑川と東に流れて太平洋に注ぐ五ヶ瀬川の分水嶺となる、眺望の良い丘の上にあります。国道218号から鳥居をくぐって真っ直ぐに登る150段ほどの石段の上に社殿があります。その石段を登るにつれて両側の木々が厚みを増し、広い境内に巨樹が林立する社叢の荘厳な雰囲気に包まれます。ここには伊勢神宮の内宮と外宮と阿蘇十二社と北宮が合祀されています。
 阿蘇の神話の中心である健盤龍命(たけいわたつのみこと)は、日向(ひゅうが:宮崎県)の美々津(現在の日向市美々津)から東征の船出をされた神倭波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)、その後に大和の橿原(かしはら)で即位して大和朝廷を開かれた神武天皇の御孫です。命(みこと)は五ヶ瀬川をさかのぼって、高千穂(たかちほ)経由でこの地に到着され、ここで幣帛(へいはく:神への捧げ物)を立てて天神地祇(てんしんちぎ:天地の神様)を祀り、阿蘇への第一歩とされたといわれています。ここは、それほどに広い眺望が開けた場所です。かつて強力に押し進められた拡大造林政策によって草原が減少したとはいえ、この神社と周辺の高みから望む井無田高原や大矢野原の先にそびえる阿蘇五岳をはじめ周辺の山々は今も素晴らしいの一語に尽きます。

■「万世一系の桧」と「五百枝杉」
 この神社の創建は平安時代の延喜(えんぎ)年間(901-923)で、阿蘇大宮司・阿蘇友成が地方巡視のとき、この地に健盤龍命を祀る神社を造営して幣立神社と名づけたときに始まります。その後、天養元年(1144)に大宮司・阿蘇友孝が阿蘇両所を合祀して、この地域の総産土(そううぶすな:地域全体の守り神)となりました。なお、現在の社殿は享保14年(1729)造営と伝えられています。国道に面した正面の鳥居から真っ直ぐに登る石段の下の方は比較的若い杉林ですが、石段の大部分を登ったあたりで巨木が並ぶ横参道と直交します。そのまま30段ばかり登って鳥居をくぐった先に社殿があり、その右側に無数のひこばえが芽吹いた切り株がどっしりと構えています。これは樹齢2000年といわれたご神木で「万世一系の桧」と呼ばれていました。残念なことに平成3年9月27日の台風19号で大きな被害を受け失われ、16年の歳月を経過して新しい命が育っているのです。
 表参道の石段と直交する横参道は、社殿がある平坦な丘の頂部を巻くように通っていますが、巨大な杉並木が神々しい雰囲気を醸し出しています。石段を登ってきて右側、国道と平行になっている部分の中ほどに、並木の中で最大の五百枝(いおえ)杉があります。名前が示すように多くの枝が豊かに茂る素晴らしい枝振りで、根本から何本にも分かれた大枝が高く伸び、神様をお迎えしているようです。横参道は巨杉が並び立って心休まる空間ですが、踏み固めで樹木の根を痛めたり根の呼吸を阻害したりしないよう、踏み板を敷いて根を護るやさしい心遣いがなされています。

■交通の要衝、馬見原
 幣立神社の例祭は毎年8月23日に行われますが、5年に一度の大祭には町の内外から、海外からの来訪者も含めて多くの人々が訪れます。合併前には人口5千人だった旧蘇陽町(そようまち)で5千人の参加があったという大規模な祭です。祭といえば、旧蘇陽町の中心で隣接する馬見原(まみはら)地区の火伏地蔵祭(ひふせじぞうまつり)も有名です。ここは宿場町で約300年前に大火に見舞われ、二度と火災が起きないことを願って享保3年(1718)小陳弥吉(こじんやきち)の寄付で木製の火伏のお地蔵様が作られました。このお地蔵様は火伏地蔵尊というお堂に納められています。毎年8月の第4土曜日と日曜日に、お地蔵様を神輿(みこし)に乗せて町を練り歩きますが、神輿のお地蔵様は昭和30年代に作られた石のお地蔵様で、最後には五ヶ瀬川まで下りて神輿ごとお地蔵様を川につけ、水を掛け合って無事を祈ります。
 馬見原は九州の臍(へそ)といわれるように、九州の中心位置にある町です。交通網が平地を中心に発達している現代の感覚では山の中に隔絶した僻地(へきち)のようにみえる場所ですが、ここは肥後国と日向国を結ぶ日向往還と、阿蘇と南九州を結ぶ重要な道の二つが交叉する交通の要衝で、古くから宿場町として栄えたところです。西南戦争のときも、田原坂・熊本城攻め・御船の戦いに敗れた薩軍は馬見原に集結し、九州山地の中央を南北に繋ぐ霧立越(きりたちごえ)を通って人吉・鹿児島に向かう出発点としました。西郷隆盛がこのルートを選んだのは、熊本や八代の平野部が官軍に抑えられていたこともありますが、鹿児島本線も、国道3号もない時代にはこの古い道が南北を繋ぐ主要なルートだったからです。

■自然を満喫、服掛松キャンプ場と蘇陽峡
 山都町蘇陽総合支所から車で約15分のところにある服掛松(ふっかけまつ)キャンプ場は、五ヶ瀬川が深く刻んだ蘇陽峡を見下ろし、遠くに阿蘇五岳を望む素晴らしい眺望の場所にあります。西日本最大級で2万坪の敷地を誇るキャンプ場は、設備の整ったオートキャンプ場、10人まで宿泊できるキッチン・シャワー・トイレ付きログハウス、ロッジなどがあり、レンタル用品も充実、より快適なキャンプが楽しめます。キャンプ場から少し足を伸ばせば、清らかな水が湧き出る舟ノ口(ふなのくち)水源、フィッシングができる緑深い蘇陽峡、バードウォッチングをしながらの山歩きなどを堪能できます。秋は紅葉が見事ですし、冬になれば五ヶ瀬ハイランドスキー場もすぐ近くなので、四季を通じて服掛松キャンプ場ならではのアウトドアライフが楽しめます。
 服掛松とは、明治26年(1893)に陸軍の演習が行われたとき、その状況の検閲をされた北白川宮能久親王(きたしらかわのみやよしひさしんのう)が一時休憩された時に軍服を掛けられたことから名付けられたクロマツです。それから114年、樹高24メートル、幹囲3.4メートルに育った樹は樹齢130年を数えて衰えが目立つようになりました。そのため、栄養剤の注入などの治療を行うと同時に、この樹の種子から育てた苗を後継樹として植えることもしています。周辺はキャンプ場の一部として公園整備がされていますが、演習のときに宮様も参加して掘られた塹壕(ざんごう)の痕跡が今も窪地の地形となって残っています。
 蘇陽峡は阿蘇の南東外輪山の高原を五ヶ瀬川が浸食してできた狭谷で、高さ150~200メートルの切り立った絶壁が14キロメートルほど続いています。川によって浸食された峡谷はV字型になるのが普通ですが、蘇陽峡は連なる絶壁の中を川が蛇行しているU字型の狭谷で全国的に見て珍しい地形です。その光景がグランドキャニオンをほうふつとさせるため、「九州のグランドキャニオン」とも呼ばれます。
 この蘇陽峡を一望できるのが「長崎鼻展望台」です。視界いっぱいに広がる峡谷美を堪能することができ、高原をえぐって深い峡谷がつくられた様子が見てとれます。
 紅葉の時季には、山の木々が色づき、抜けるような青空と白く流れる川に映える美しさは、県内トップクラスの紅葉スポットとして知られます。


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