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  老樹名木詳細
 
天社宮の大樟(てんじゃぐうのおおくすのき)


■天社宮の有名なご神木のクスノキ
 熊本市の中心部を通って流れてくる坪井川と井芹川が合流する三角地にある天社宮に、樹齢1000年といわれるクスノキがあります。幹囲は12メートルで樹高は22メートルあります。主幹は樹皮が波打ってねじれたような模様ができ、不思議な姿になっています。しかし、周囲に民家が密集しているため切り落とされた大枝が多く、樹勢も盛んとは言えない状況です。
 天社宮の公式名称は高橋東神社ですが、地元では親しみを込めて天社さんと呼ばれています。この神社の西に高橋稲荷神社があり、その東にあるから高橋東神社なのですが二つは全く別の系統の神社で、天社宮のほうが千年近く前の時代に創建されています。祭神は、奈良時代に肥後の名国司といわれた道君首名(みちのきみのおびとな)です。
 和銅6年(713)に肥後守になった道君首名は産業の振興に努め、農耕や果樹・野菜の栽培、豚や鳥の飼育などの技術を基礎から教えました。時々国内を巡回して指示に従わない者を厳しく処罰したので、民衆ははじめのうちは恨みに思っていましたが、指導に従うと収穫が増えることがわかり、喜んで服従するようになりました。首名が亡くなったときに農民たちはその徳を称え、この地に神として祀りました。クスノキの近くにお堂がありますが、それは拝殿で、この樹そのものがご神木です。今も周辺はきれいに掃き清められていて、住民から慕われていることがよくわかります。
 自動車交通が発達した現代ではわかりにくいことですが、坪井川と井芹川が合流する地点は古代から第二次世界大戦の後まで、交通の重要拠点でした。有明海経由で運ばれてきた多くの物資は古代には高橋周辺を、時代が下がるにつれて下流に整備された小島や百貫の港を拠点にしていました。熊本市の地形を、この二つの川との関係で見直してみると、熊本城が作られた茶臼山から北に伸びる京町・出町の細長い台地は、東の坪井川と西の井芹川が長い年月をかけて削って作られたものと理解できます。
 熊本城は鶴の首のような地形の上にあると言われますが、その地形が「守るに易く攻めるに難い」城のすべてのもとになっています。そして、鶴の頭にできた城の周囲に城下町が形成されましたから、大きな消費都市を養う物資のルートとして二つの川がいかに重要であったかも想像できます。その前の古い時代でも、程度の差はあってもここが重要な拠点だったから、肥後国司としての道君首名がここで活躍したのです。

■天社宮の父親供養の地蔵菩薩
 天社宮の横には、放牛石仏の88体目の地蔵菩薩が小さな堂の中に安置されています。放牛石仏とは、放牛上人という僧が、享保7年(1722)から享保17年(1732)までの11年間に、熊本市を中心に玉名、菊池、阿蘇、上益城などの道端に、自分の父親の菩提を弔うために107体の地蔵を建立したものです。これらの石地蔵を「放牛地蔵」とか「放牛石仏」と呼び、ほとんどの地蔵に番号が付けてあります。107番まで確認されていますが、番号がないものも8体ほど確認されています。
 放牛上人は江戸時代、熊本城下の鍛冶屋町に生まれました。貞享3年(1686)、兄弟げんかをしているところを父親が何度も注意したにもかかわらずやめなかったので、父親は持っていた火吹き竹を投げつけました。それが不運にも家の前を通りかかった侍の顔に当たり、父親はその場で無礼打ちになりました。これを自分のせいだと嘆き、出家して放牛と名を改め、30余年の修行ののち各地に地蔵菩薩を建てて父を弔いました。放牛地蔵の1体目は熊本市立田迎小学校正門前(熊本市田迎)にあり、熊本市内にはほかに数体ありますが、いずれも保存状態は良く、地域の人々が大事に守ってきたことがうかがえます。

■現在の「森の都」熊本をつくった 河喜多義男(かわきたよしお)翁
 熊本市は森の都と呼ばれていますが、その森の基礎となったのは城下町の屋敷林を構成する雑多な樹木でした。その中でも、大きく育つエノキやムクノキなどの落葉樹とともに、冬も葉を落とさないクスノキが緑の重要な要素となっていましたし、現在もそうなっています。明治10年(1877)の西南戦争で焼失した市街地に緑を取り戻すために多くの努力が積み重ねられましたが、その中でもとくに大きな貢献をしたのが河喜多義男翁です。
 河喜多翁は安政元年(1854)に現在の菊池郡菊陽町に生まれ、幕末から明治・大正・昭和にかけて文明開化の波で激動する時代に、前半生は西洋の科学技術を学んで新しい農業の実践普及を行い、同時に貧しい庶民の救済にも努めて農村の振興に寄与しました。後半生は、恒久的な資源造成による外貨獲得の方策として、クスノキなど20万本の植樹を行い「森の都」熊本の緑化に大きく貢献しました。昭和9年(1934)12月に81歳で亡くなりましたが、昭和48年(1973)に熊本県近代文化功労者として顕彰されています。
 植栽する樹種について、翁は香り高い木材で用途が広く、防虫用や医薬用としても重要な樟脳の原料になるなど広く利用できるクスノキに着目し、県下の全戸数216,500戸が1本ずつ植樹すれば、10年後に1本10円とすれば、216万5千円の資産を形成したことになる、と考えました。そこで翁は、公用地の空き地、社寺、公園、官庁、学校、病院など、さらには私有地の住宅などにも植樹する計画を固め、明治36年(1903)50歳のときにクスノキ苗の寄附を県知事に申し出て許可を得ました。まず立田山などの私有地で開始して県庁(現在の白川公園)や熊本城など広範囲に植樹を広げ、クスノキ10万7千本のほかにケヤキ・サクラ・クルミ・イチョウなども植え、河喜多父子(翁と子息の義忠氏)による植樹は20万本を超えています。その「樟樹献植記録」は一部が現存しているだけで全容はつかめていませんが、翁が考えたように成長したクスノキが伐採され、その収益により社寺の修復再建等に利用されたり、団体の基金になった例も多いとのことです。
 植樹を始めた初期のものは100年ほどの樹齢を重ねましたから、熊本市やその周辺で二抱え以上あるクスノキは、ほとんど河喜多父子の植樹したものであろうと言われています。熊本を「森の都」と呼んだ夏目漱石が勤務した第五高等学校(現在の熊本大学)は、現在地に明治22年(1989)に農地を造成して建設・開校した学校ですが、建設当初の写真にはなくて現在二抱え以上になっているクスノキが何本もあり、河喜多翁のクスノキである可能性は高いと思われます。
 熊本を「森の都」と命名したのは夏目漱石であっても、現在の青々としたクスノキの森を残したのは、河喜多父子であり、営々として育苗、植樹、愛護に献身したその業績を忘れることはできません。熊本を旅する者が、異口同音に「熊本の緑」を称賛するのは、翁の功績によると言えます。
 翁の功績集を執筆した村山豪氏は、「樟は千年の樹齢を保ち、枝葉材幹共に香気を発し、萌え出る新緑は初夏の空に映えて実に美しい。樟の実は多くの小鳥を呼び、力強く四方に伸びる枝は暑さの厳しい熊本地方では恰好の樹陰をつくる。樟こそ、郷土風景の骨格的存在である。」と書いています。
 肥後の熊本を代表する熊本城内には四季を通じて、クスノキ、エノキ、ムクノキ、ケヤキ、イチョウなどが豊かに繁茂していますが、その主役はクスノキです。熊本県は、昭和41年(1966)10月3日、「県の木選定審議会」で「クスノキこそ県民に親しまれ、郷土風景の骨格をなすものである」として、クスノキを満場一致で「熊本県の木」に選定しました。


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