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  老樹名木詳細
 
藤崎台の樟群(ふじさきだいのくすのきぐん)


■度重なる被害から立ち直った「森の都・熊本」の象徴
 7本のクスノキの巨樹が、熊本城の西端にある藤崎台球場の、外野席スコアボードの後にそびえ立っています。ここの野球場では毎年、甲子園行きの切符をかけた高校球児たちの熱戦が繰り広げられますから、この樹たちも応援団の大歓声に包まれながら、外野席の外から汗と涙の青春模様を見つめてきました。また、外野席の後ろにずらりと並んでいるので、試合の背景としてではありますが、熊本県民が一番よく見ている国指定の天然記念物です。
 野球場の周囲に沿って歩いて行くと、正面からどちら側に回っても同じくらいの位置にあります。どっしりと太い樹幹はどれも堂々とした構えで、大小の枝をくねらせ伸びています。幹に空洞ができている樹が多いのですが、いずれも樹勢盛んで7本が繋がって大きな緑陰を作っています。とくに、新緑の頃から盛夏にかけては涼風が吹き抜ける気持ち良い憩いの場になっています。1本1本がそれぞれに豊かな表情を持っていますから、一番お気に入りの樹を探すコンクールのような気持ちで回るのも面白いでしょう。
 樹の周囲にフェンスが巡らされて幹に近づくことができなくなっています。何故そのような無粋なことが行われているかというと、昭和20年(1945)の熊本大空襲で家を焼かれた人が空洞に身を寄せ、その後も住み着く人が続きました。その炊事などの火が原因で小火(ぼや)を出すことがあったのですが、昭和39年の失火のときは地上十数メートルの高さにある空洞の先端から火を噴いて燃え上がり、シュノーケル車までが出動する火事になりました。それでも外からかける水が空洞の内部に届かないため、空洞全体が燃えさかる煙突のようになった火の勢いは抑えられませんでした。そのとき消防署がとった処置は、泥で空洞の口を塞ぎながらドライアイスを下から投入するという思いがけない方法でした。誤解のないよう書き添えますが、冷却剤のドライアイスで温度を下げて消火したのではなく、二酸化炭素を発生・充満させて空洞の中に火消壷の状態を作りだしたのでした。

■かつて藤崎八旛宮が鎮座した藤崎台
 ここ藤崎台は、現在は白川河畔の井川淵(いがわぶち)町にある藤崎八旛宮が、明治10年(1877)の西南戦争のときまで鎮座していたところです。熊本市域の総鎮守として崇敬されてきた藤崎八旛宮の社殿や楼閣は西南戦争の戦火にあい、焼けた社叢の樹々の中で生き残ったのがこの7本です。単木のクスノキならば、ここの樹よりも大きいクスノキが熊本県内に何本もありますが、このように多数群生している例はほかになく、また、歴史ある藤崎八旛宮の社叢を形成するご神木であったことから国の天然記念物に指定されているのです。熊本城の一角にあり、小高いところに位置しているので周囲から良く目立ち、森の都・熊本の象徴のようです。
 今から1070年ほど前、東国では「平将門(たいらのまさかど)の乱、西国では「藤原純友(すみとも)の乱」がほぼ同時に勃発しました。ときの帝(みかど)朱雀(すじゃく)天皇は逆賊討伐を祈って承平5年(935)に各地に武神を勧請し、熊本では現在の熊本城域となっている茶臼山の西端に京都の石清水八幡宮を祀られました。そのときの勅使・平宗定(たいらのむねさだ)がフジで作られた鞭を地に挿したところ、やがて根付いて見事な花を咲かせるようになったので、社名を藤崎宮と称するようになったと伝えられています。
 熊本城の古城(ふるしろ)地区、現在の第一高等学校の場所に隈本城(くまもとじょう、後に茶臼山全体を城郭とした加藤清正が熊本城と改めた)を築いた鹿子木寂心(かのこぎじゃくしん)が、享禄2年(1529)に藤崎宮を再興しました。そのとき後奈良天皇から賜った勅額に八旛と記されていたので、以来「藤崎八旛宮」と「旛」の文字が使われています。
 加藤清正も朝鮮出兵のときにこの神社で武運長久を祈願し、無事に帰還できたのは八旛様のご加護のおかげと、慶長3年(1598)に武者行列を組んで藤崎宮に参拝しました。そのときの随兵(ずいびょう)行列が藤崎八旛宮の例大祭の起こりとされ、独特の馬追いとともに熊本を代表する祭として現在に続いています。

■西南戦争、熊本城攻防戦で最大の激戦地
 この藤崎台が熊本城攻防戦で最大の激戦地となったというと、天守閣などがある城の中心部から西に遠く離れているのになぜだろうと疑問に思う人がたくさんいます。確かに、堅固な石垣に囲まれた熊本城の本丸は城域の東にありますから、そこで激戦が繰り広げられたろうと考えたくなります。しかし、熊本城は東が高く西が低い茶臼山の地形に合わせて構築された西向きの城なので、攻めるとなると西から攻撃するのが定石なのです。事実、薩軍が最初に四方から総攻撃をかけた後、攻め込み口は西しかないと集中して攻撃をかけた場所が、西端の段山(だにやま)とそれに続く藤崎台だったのです。
 加藤清正の築城計画を詳しく見てみると、城の最高所(標高50メートル)に本丸を置き、東・北・南の三面は堀の役目をする川や深濠と急峻な崖線に囲まれ、重要な崖線は強固な石垣で固められています。その強固さと対照的に標高10メートルの段山はそのまま残し、その背後に四段の防衛線を構築しました。城を守るには全体を堅固にすればよいのではなく、一箇所に隙というか攻めやすい場所を作って敵の攻撃を集中させるのが兵法の基本です。つまり、そこから攻め込んで来る敵をできるだけ有利な形で迎え入れ、守備側も全力を投入する決戦をしなければ守り勝つことはできないのです。
 その攻防戦の第一線は、段山と藤崎台の間にある標高20メートルの漆畑(うるしばたけ)と熊本博物館がある古京町の台地です。ここは進入路となる通路に石垣が築かれただけで、残りは崖線のままです。第二線は藤崎台と護国神社の標高30メートルの台地です。第三線は標高35メートル前後の二の丸広場を主体として北は新堀門に続く百間石垣(ひゃっけんいしがき)と土塁、西には現在は道路として利用されている空濠を設け、そこの入口になる所には堅固な石垣の枡形を築いています。南の国立病院側は高い崖線の自然地形を利用しています。この三つの防御線を突破するには多大な犠牲が必要で、薩軍も第二線を突破することができませんでした。第三線まで突破して二の丸まで進出したとしても四番目の西出丸の線があり、その東にもう一つ深い濠があって櫓が林立し幾層もの高石垣に囲まれた本丸があります。清正は自分が留守のときに西出丸の線まで攻め込まれても、自分が帰るまで一ヶ月は持ちこたえられる城構えをしたといわれています。

■藤崎台周辺の地形
 現在の藤崎台周辺の地形を見てみると、一段下の漆畑西側は下を通る市電と鹿児島本線の線路の面にほぼ一挙に下る斜面になっています。しかし、西南戦争の時代には一段低くなった後は緩やかに段山まで繋がっていました。その山を切り通して鉄道を通したのが明治24年(1891)、市電が通る道路を切り通したのが昭和3年(1928)のことで、第二次世界大戦後までは二つの線路の間に切り残された山の残骸が残っていました。それが完全に撤去されて済生会病院と保健所が建設されたのは昭和30年代で、その地形を記憶している人も多いでしょう。鉄道を敷設する前の地形を想像してみると、ここ藤崎台で司令官谷少将に次ぐ守備軍幹部である連隊長・与倉中佐が戦死し、参謀長・樺山中佐が負傷するほど激しい戦闘が繰り広げられたことや、薩軍が熊本城防衛の第二線すら破れずに敗退したのも加藤清正の計画どおりだったことが理解できます。
 その大激戦で社殿楼閣などすべてが灰じんに帰し、藤崎宮は現在地に遷座しました。それで秋の例大祭のときには現在の藤崎八旛宮から旧社地の藤崎台まで神幸式が行われ、その行列を拝しようと数十万人が県内外から集まってきます。
 近くには、県指定天然記念物の「樹齢800年の寂心さんの樟」、市指定天然記念物の「樹齢400年の釜尾天神の石櫧(いちいがし)」、後述の「花畑公園の樟(くすのき)」、「樹齢1000年の天社宮(てんじゃぐう)の大樟」があります。


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