■内牧の領民から慕われた右馬允様の墓を守るスギ
加藤右馬允可重は、近江国に生まれ、加藤清正公の親戚と伝えられる加藤家の重臣です。天正16年(1588)閏(うるう)5月の清正公の肥後入国の翌6月には、阿蘇を守るために豊後(大分県)の大友宗麟に備えて、肥後東部の重要な拠点である内牧城の主となりました。可重以来3代まで25年の長期にわたり在任し、湯山の地に祀られました。一説には湯山温泉の発見も可重によるものと伝えられています。元和元年(1615)に一国一城令が出され廃城になりましたが、城跡が参勤交代の道に面していたため、細川家の御茶屋が建てられました。
右馬允可重が祀られている御堂には、本人の姿絵や「殉死者五輪の塔」といわれるものがあります。御堂の右横には、その功績をたたえて、内牧の青年会が明治19年に建立した「南無妙法連華経了覚院殿尊霊供養塔」があり、領民にたいへん慕われ、語り継がれてきたことが分かります。
右馬允可重の墓は、大観峰への登り口から左に入り、石段を30メートルほど上がった、たいへん景色がよいところにあります。墓の奥には北と南に二本のスギがあったのですが、平成3年(1991)9月27日の台風19号で北側のスギが倒れて、現在は南側の1本と大きな切り株だけが残されています。
石段を降りた近くに、宝くじの神様で知られる「福の神地蔵尊大菩薩」がありますが、平成7年(1995)に墓の周辺を整備中に出土したもので、かなり古いもののようですが年代は不詳です。手に持っているものが昔の宝くじのようだということから、宝くじの神様として親しまれ、多くの参拝者が訪れます。
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