■古い歴史を物語り、文化を伝える満願寺の老樹
小国郷は承久3年(1221)の承久の乱により、公家であった葉室(はむろ)氏から武家の北条氏の所領になりました。その後しばらくして起こった元冦、つまり世界制覇を目指したモンゴル帝国の侵攻という開幕以来最大の国難が日本を襲ったのです。鎌倉幕府の第5代執権の北条時頼は文永11年(1274)に、弟の北条時定を小国郷に下向させました。小国郷は九州のほぼ中心にあり、阿蘇氏をはじめ九州各地の豪族に睨みを効かせる重要な拠点でした。時定は嫡子の随時(ゆきとき)と弟の定宗(さだむね)を伴って小国に入り、満願寺を建立しました。
満願寺とはいかにも福々しい幸せを呼びそうな名ですが、元冦に際して時定が敵国降伏の勅願を得て文永11年(1274)に、京都の醍醐寺の経果和尚を招いて開山した真言宗のお寺で、正式の寺号は立護山醍醐満願寺といいます。ですから、ここでの「満願」は個人的な願望の成就ではなく、国家存亡の危機に国を護る願をかけ「満願」を祈ったものです。国難を乗り切る思いを神仏に託することが、国の政治にとって大切な役割を果たすことでした。
創建当時の堂牢は壮大で寺領が50町歩(約50ヘクタール)もある大寺院でした。当時、満願寺の周辺は聖域とされ、地区の東西の人口には船の形をした入船石・出船石が置かれ、その区間は馬に乗っての通行は禁じられていました。この2つの石は現存しています。
鎌倉幕府が崩壊した後も、満願寺は北条氏の創建にもかかわらず、勅願寺ということで南北朝の時代に後村上天皇の祈願寺になるなど、崇敬され続けました。室町・戦国の時代にも阿蘇氏や豊後の大友氏などから大切に保護されてきました。しかし、天正16年(1588)の国衆一揆の余波で寺領を失い、衰微して毘沙門天を祀る多門院だけが現在に残されています。室町時代に作庭された心字池のある庭園は、県指定の名勝及び史跡で見事なもので、所蔵する仏像や仏画や文書も県指定の重要文化財です。山門前の志津川には温泉も湧き、すぐ下流には国指定天然記念物「志津川のオキチモズク発生地」があります。
この北条3代の墓が県指定の史跡「満願寺石塔群 附杉群」で、現在は廃校になった満願寺小学校の運動場西の小山の麓にあり、3基の五輪塔墓にスギの7本の巨樹を含めた指定になっています。しかし、樹だけでも天然記念物級の立派なものです。また、昔はここの落葉を畑に撒くと虫がつかないといわれたほどに北条様は地域の崇敬を集め大切にされてきました。運動場の一部のような場所なので、廃校になるまでは学校の掃除当番割り当て区域の一つでしたから、子どもたちは生活の中で北条様の墓と杉を身近に感じながら育ちました。
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