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  老樹名木詳細
 
大津山下ツ宮の椋(おおつやましもつみやのむくのき)


■町の歴史を見つめ、子どもたちを見守るムクノキ
 南関第一小学校の校庭にあるムクノキで、波打つような隆起を持つ樹幹に老樹ならではの風格を感じます。衰弱が目立つようになって平成14年に根元の養生と支柱立てが行われ、現在は静養中ですがずいぶん元気になりました。この樹を学校のシンボルと考える子どもたちは、絵を描いたり文章に書いたり言葉にしたりする学習活動とともに、養生のために根元に立ち入らないなどの努力もしています。
 この地を「下ツ宮」と呼ぶのは、大津山阿蘇神社の遷宮のときに仮の宮が作られたからといわれ、また、祭礼のときの御旅所だったからともいわれています。この神社を阿蘇から勧請した大津山氏は、戦国時代に大津山(256メートル)の山頂に築いた藟嶽(つづらがたけ)城を拠点に県北部を支配していた豪族で、南関町の歴史に大きな足跡を残しています。
 南関町に関して多くの人が疑問に思うことは、県の北部、つまり細川藩の時代にも北の国境だった場所の名が、何故「南の関」なのかです。地図を見て考えるとわかりますが、この地域は大津山(おおつやま)、三池山(みいけやま)、小岱山(しょうだいさん)、二城山(にじょうざん)などの山々に囲まれた盆地で、これらの山の間を通る豊前街道その他の道が集まる交通の要衝です。延喜5年(905)に編さんを始めた古代の法典「延喜式」(えんぎしき)には、大水(おおむつ)という名で駅家(えきか)が置かれたことが記録されています。
 中世には、国境の急峻な峠道を越えた北側(現在は福岡県みやま市山川町北の関)に北の関(松風の関)が、南側に南の関(大津山の関)があり、それが南関町の名の由来となっています。ただ、六代目城主の大津山資冬(すけふゆ)が娘を三池城主に嫁がせるときに、北の関一帯の土地を持参させたので福岡県のものになったといわれています。
 江戸時代にも豊前街道(熊本城から出町・植木・山鹿・南関を経て小倉まで)は参勤交代道として使われた重要な道で、藩主が休憩する御茶屋もありました。その建物は南関町役場のそばにありますが、最近修理して立派に復元されました。おかげで現代のわたしたちも、殿様が座った座敷から庭を眺めながら、地元ボランティアの方のサービスでお茶をいただくことができます。
 古代から交通の要衝だった南関には、明治10年(1877)の西南戦争のときにも有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王が総指揮をとる本営が置かれました。弾丸や食料などの軍需物資を集積し、円滑に前線まで届ける基地として立派に機能したことが、官軍を勝利に導いた大きな要因です。また、負傷者の手当をする病院も設置されたので、戦火の及ばなかった南関に思いがけず大きな官軍基地が存在することになりました。日本近代化の産みの苦しみだったといわれる西南戦争で、田原坂などの激戦地に目が向きがちですが、歴史の流れの中で南関が果たした役割は、もっと重く考えなくてはなりません。
 町の歴史を見つめてきたムクノキは地域の人々に大切に守られてきました。町の中央公民館の緞帳(どんちょう)は、日本画家で町長も務めた石井了介がこのムクノキを描いたものです。また、この元町長は北原白秋の従兄弟で、関外目(せきほかめ)にある石井家は白秋が生まれた家です。「第二の故郷は肥後の南関」というほど白秋は母の実家をたびたび訪れ、庭園にはゆかりの歌碑や思い出の樹木なども残っています。また、小学校には白秋が作詞し山田耕筰が作曲した校歌の碑が、町の中にも名産の南関素麺を詠んだ歌碑が建っています。
 近くには、「石井家の彼岸桜」「小原の石樫(こばるのいちいがし)」「乙丸の黐(もちのき)」「肥猪の枝垂桜(こえいのしだれざくら)」があります。


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