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  老樹名木詳細
 
阿弥陀杉(あみだすぎ)


■阿弥陀仏に似た形をしていた「阿弥陀杉」
 小国町の道の駅「ゆうステーション」から西に4キロメートルほど行った黒淵(くろぶち)地区の田畑の中に、ぽつんと佇む巨大なスギです。枝張りの広さは驚異的で、伸びた枝の先端を結んだ線で囲った範囲の面積が240坪(約800平方メートル)もあったといわれます。空洞化した根元は子供たちの遊び場にもなっていました。大きな釣鐘のような姿で天に向かって高くそびえ立ち、緑の葉を黒々と茂らせた県下最大のスギで、その姿の見事さから阿弥陀杉にかなう木はないといわれていました。
 ところが、このスギの巨樹は平成11年(1999)9月24日の台風18号によって、大きな被害を受けてしまいました。そのとき現場の光景を見ていた人は、「一瞬のことだった」と話します。その風で枝分かれして鐘形の樹形を作っていた大枝の上部3分の2くらいが一挙に主幹から吹き折られてしまったのです。現在は下部の大枝だけが残って鉄の柱で支えられ、保護されています。また、受けた傷が癒えて健康を回復するためには、根を健康にすることが根本(こんぽん)問題であると、地面を耕して風を通したり土壌改良に努めたりなどの処置で、土壌微生物を活気づける養生がなされています。
 台風の被害を受ける前は十数本の大枝が立ち上がり、さらに中枝から無数の小枝へと分かれて、1本の樹が小さな森そのもののようでした。また、天から釣り下がった梵鐘(ぼんしょう)のようだといわれ、その樹形がいかにも阿弥陀杉の名にふさわしいともいわれていました。阿弥陀杉と呼ばれるようになった由来は、この樹の根元に阿弥陀堂があったからで、現在その阿弥陀像は近くの薬師堂に祀られています。

■こうして阿弥陀杉は残った
 阿弥陀杉は明治35年(1902)に売却されて伐採されることになりました。ところが、この名木が失われるのは耐えられないことだと、当時の北小国村(現在の小国町)と南小国村(現在の南小国町)の人々が両村の財産組合で買い戻し、両村共有の宝として永久に保存することになりました。阿弥陀杉の価格が250円、土地の買収価格40円(724.42平方メートル)家屋立退料50円の合計340円でした。
 小国町の天然記念物台帳によれば、土地の内訳は墓99平方メートル、宅地31.42平方メートル、田畑594平方メートルとなっていますから、この面積と購入時の価格から現在に換算して大変な金額だったことがわかります。阿弥陀杉が生えている場所は北小国村なのに、隣村の南小国村も自分のことのように経費などを負担し、両村共有の宝であるとし共通の誇りとしたことに小国郷の一体感が現れています。また、この話は天然記念物の保存に関する格別の美談として、昭和9年に国の天然記念物に指定されたとき報告書に詳しく記録されて、広く全国に知られるようになった有名な話です。
 黒淵地区には観音杉と呼ばれる大きなスギもありました。しかし、現在では詳しい事実関係はわかりませんが、阿弥陀杉の保存が問題になる前の明治時代に売却されて失われました。文明開化で西洋的な合理主義が進んだ明治時代には、古来より神様や仏教の信仰などと結びついて大切にされてきた樹が、木材としての価値だけで判断されて伐採された例は多くあったようです。その点、阿弥陀杉は現代風にいえば地域の「もやいの心」で千数百年の命をつなぎ、かけがえのない財産として今の時代に伝わっている幸運な例です。

■小国(おぐに)、歴史ある林業の先進地
 小国地方は阿蘇の北外輪山から久住山系の山々に囲まれた穏やかなすり鉢型の地形で、筑後川の最源流に当たる地域です。小国という地名は全国に何カ所もありますが、いずれも地形的に周辺から隔離された地域であるようです。ここ阿蘇の小国も、阿蘇の中心部からは大観峰の峠を越えて、下流大分県の日田市からは筑後川の谷沿い道を遡って入る、他の小さい道もすべて山を越えなくては到着できないところです。外から見れば辺境の地のように見えますが、内から見れば穏やかで落ち着いた暮らしができる別天地です。そのような環境だから深い絆で結ばれた生活があり、「小さいけれども一つの国」という意識が地域名となって現れたのでしょう。
 小国地方は国の天然記念物に指定されている老樹名木が4本、県指定のものが2本あるほど、地域全体として老樹名木を大切にしてきた地域です。同時に、色や光沢が良くて強度も高い小国杉で有名な熊本県一の林業先進地です。もともと九州には、屋久島以外に現存するスギの天然林はないといわれていますが、小国地方でスギの植林が始まったのは1760年代の宝暦以降で、宝暦の改革の一環だったのか肥後藩令で一軒に25本のスギを穂挿して育てたのが始まりです。その後、万延元年(1860)に屋久島・吉野・高野山の3地方からスギを導入して植えた記録もあります。しかし、明治15年ころをピークに薪を採るために乱伐が行われ、一時は山々は荒れ果てたといわれます。
 明治26年(1893)ころから再び植林が盛んになりますが、吉野林業そのままの方式では小国地方には適さないと判断され、小国山林会有志の共同研究で独自の方法が形成されてきました。空襲で多くの家屋が失われた戦後の昭和24年(1949)に土地の高度利用が提言され、昭和34年(1959)に町が入会原野(いりあいげんや:住民が共同で利用する草原)を個人に払い下げ、個人による植林が進められました。さらに、その後に始まった国の拡大造林政策により原野や雑木林でスギ植林が進みました。
 早い時期から植林が行われた伝統ある小国の成功は、古い山もあれば若い山もあるという幅広い資源を持っていたことにあります。そして、その根底には小国の人々の木を大切にしてきた歴史の積み重ねがあり、それが小国林業の最大の強味なのです。

■森林認証材「小国スギ」の新たな取り組み
 現在世界的に森林の減少が進行し、地球環境が悪化への道を辿っていることが問題になっています。しかし、森林を伐採して得られた木材や紙などを大量に消費しながら、わたしたちはその産地などについて意識することは多くありません。小国町では適切な森林管理を行うために、森林組合が森林認証という新たな試みを始めています。木材生産の現場から建築の現場を経て住宅となり住む人の生活現場となるまで、「小国杉」という木材認証材を使用することで、わが家の柱がどこでとれたどの木かがわかるシステムです。この認証制度は、木材生産者である森林管理者から利用者までが一体となって地産地消を意識する、いわば「顔の見える市場」が豊かな森林を保全する基礎として重要だという考え方です


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