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  老樹名木詳細
 
山森阿蘇神社の樟(やまもりあそじんじゃのくす)


■白秋が愛した「第二の故郷」、南関町
 南関(なんかん)町の関外目にある石井家は、北原白秋の母の実家で白秋の生家として知られています。関外目とは、関村(現在の南関町の中心で役場などがある関町)に対して、そこから分かれた新しい村という意味です。
 石井家は幕末に酒造業を営んでいたので、筑後地方の同業者とはいろいろと縁があり、その中の一軒である柳川城下の北原家に、白秋の母「しけ」が嫁ぎました。母は明治18年(1885)関外目の石井家に里帰りして長男の白秋を出産し、石井家の祖父の名から一字をもらって隆吉(りゅうきち)と名付けられました。
 白秋は、自分の出生の地であり、母の実家でもある関外目が大好きで、遠距離をいとわずたびたび訪れています。マイカーを使う今では簡単に行き来できる距離ですが、当時は日帰りで遊びに来るなどとうていできないような距離でした。それでも、南関での楽しい生活を心待ちにしながら、母と一緒に、あるいはひとりで、目を輝かせて土埃の立つ長い道を馬車に乗ってやってくる白秋の幼い日の姿が想像できます。
 白秋自身が、明治44年(1911)刊行の詩集「思ひ出」の序「わが生ひたち」で記したように、幼年時代に南関の山や谷を駆け巡り、「山のにほひ」と生き物に揺れ動いた心の軌跡が、白秋の文学的素地の形成に与えた影響は計り知れないものがあったでしょう。
 この彼岸桜は樹齢300年と推定されていますから、白秋が生まれたころから相当な大樹だったはずです。現在も、石井家の塀に近い場所にそびえていて、花の時期になると塀の外の道を覆うように咲き誇ります。地元では、この彼岸桜が咲くと田起こしの作業を始める、農作業暦の指標にしていたそうです。

■お母様は玉蘭(はくれん)、白い気高いハクモクレン
 石井家にはこの彼岸桜のほかに、町指定天然記念物のツガがあり、高くそびえる常緑針葉樹なので門の外からもよく見えます。また、文化財ではありませんが、ハクモクレンの老樹があります。ハクモクレンは門と玄関の間にあって外から見ることはできません。白秋はこの樹を特に愛し、門を入ったところにある生誕歌碑には、「春霞関の外目は玉蘭の花ざかりかも母の玉名は」と、刻まれています。白秋は「苛酷なほど父から好学の道を禁圧されたわたくしを、よく理解し、よく保護し、その道への進出に心を尽くしてくれた人はこの母であった」と語っていますが、白秋にとって「母はわが凡て」でした。
 童謡集「月と胡桃(くるみ)」では、「お母さまは木蓮 白い気高い木蓮」と、母への思慕を詠んでいます。昭和17年(1942)、白秋は母の病状を案じながら先に逝きましたが、母しけは昭和20年に亡くなりました。白秋が母の面影を見続けたハクモクレンは、3月になると今も変わらずに美しい花を咲かせ、石井家に春の訪れを告げています。
 白秋は名産の南関素麺も歌にしており、「てうち素麺戸ごとかけなめ日ざかりや関のおもてはしづけかりにし」と詠んでいます。町の中心部のバスターミナルにこの歌碑が建てられています。南関素麺は細く長い白糸のように美しいのが特徴で、人の手によって丹念に延ばされた麺を長くかけ干して作る手作りの逸品です。300年とも250年ともいわれる歴史があり、江戸時代には細川藩の幕府への献上品として、明治以降は天皇家に献上されました。
 南関の名産としては南関あげも有名です。これは豆腐の水気を絞ってじっくりと揚げ、年間を通じて常温保存できるのが特徴です。パリパリなのに、煮るとふんわり、ほのかな甘みがあり、みそ汁をはじめ、煮物、巻き寿司など熊本の家庭料理には欠かせません。普通のあげとは随分違っていて美味なものですが、白秋は素麺のような美しさは感じなかったのか、歌にはなっていません。

■南関町の旧家、石井家
 室町・戦国時代にこの地域を長く支配していたのは大津山氏で、その先祖である藤原姓日野河内守資基(ひのかわちのかみすけもと)に足利義満が玉名郡臼間庄大津山を与えたことに始まります。資基は応永2年(1395)に下向し、大津山(256メートル)の山頂にある藟嶽(つづらがだけ)に大津山城を築き、自らの氏も大津山と改めたと伝えられます。石井家の祖先は、そのときに京から同行した重臣の一人といわれます。
 石井家は、白秋の伯父隆承(りゅうしょう)が町長を務めるなど町の名士でしたが、白秋は自慢の甥でした。隆承は、詩人としての名声を博していた白秋に南関小学校(現南関第一小学校)の校歌の作詞を依頼しています。白秋の詞に、当時白秋と親交のあった音楽界の第一人者山田耕筰が曲をつけた校歌は今も子どもたちに歌い継がれています。母しけの弟の子で、白秋の従兄弟にあたる日本画家の石井了介も昭和42年(1967)から昭和50年(1975)までの2期、町長を務めました。文化人町長として知られ、町の中央公民館の緞帳(どんちょう)にムクノキを描いています。このムクノキは樹齢500年の県の指定天然記念物で、南関第一小学校の校庭にあり、子どもたちを見守っています。

■彼岸桜の正しい名前はエドヒガン
 彼岸桜は、植物学的に言えばエドヒガンという種類で、もともと日本の山地に自生して広く分布する落葉高木です。ヤマザクラとともに古い時代から野生の状態で、または身近な場所に植えて観賞されてきた桜の代表で、日本文化の中で重要な位置を占めてきた植物の一つといえます。和名は江戸の彼岸桜の意味ですが、江戸でたくさん栽培されていたから付いた名前で、江戸に自生していたものではありません。また、彼岸桜は春の彼岸のころ他に先駆けて開花する桜の意味です。明治以後は園芸品種のソメイヨシノが主流となって桜の名所が数多く作られましたが、古くからの名所にはエドヒガンやヤマザクラが多いようです。
 野生の桜が自然に咲く姿を眺めるのが観賞の中心だった時代でも、山の中で美しさが際立っていれば、その株またはその子孫を持ち帰って植栽することは行われました。そのことが積み重なると、より美しく変化に富んだ株が栽培されるようになります。そして、エドヒガンはもともと寿命の長い木なので、そのようにして大切にされた株が何百年も生き続け、各地で老樹名木となっているのです。
 明治以後は、エドヒガンとオオシマザクラの雑種である園芸品種のソメイヨシノが、成長が早く一斉に開花する特徴が好まれて大量に植えられました。そのため、エドヒガンは少なくなってきましたが、寿命が長いので各地に大木になって残っています。県内でエドヒガンを大切にすることで目立っていたのは上益城郡の山都町(やまとちょう)でしたが、近年は天狗巣病の被害などで減少しているのは残念です。エドヒガンは成長は遅くても寿命が長い木ですから、長い年月を通して楽しめます。ソメイヨシノと両方植え分けておけば、開花期が1週間ずれるので、花見を2回楽しむこともできます。

■寒い時期に咲くカンヒザクラ(寒緋桜
 「ひがんざくら」と発音が似ていて混乱のもとになる桜に、「ひかんざくら」(緋寒桜の意)があります。沖縄に多いカンヒザクラ(寒緋桜の意)の別名ですが、まだまだ寒い時期に緋色の花を咲かせる桜という名前です。沖縄では1月から2月にかけて咲きますが、いわゆる「桜前線の北上」とは逆に、沖縄の北部から咲き始めて名護・那覇・糸満と開花前線が南下してくる興味深い現象があります。桜は春に暖かくなって開花するものですが、その前に寒さに触れて開花準備を早くから始めていた北部の桜がまず咲き、寒さが来なくて暢気にしていた南部の桜が遅れて咲き出すのだそうです。
 カンヒザクラまたはその園芸品種が、現在では九州から関東南部まで点々と植栽されるようになりました。熊本県内でもときどき見かけますが、開花は2月から3月にかけてのようです。クローズアップされた写真で見ると威張った花にみえますが、花がやや小振りで垂れ下がって咲く、おとなしい謙虚な感じを受ける桜です。また、全国のお花見のトップを切って行われることで有名な伊豆半島河津町のカワヅサクラは、早春に開花することと紅の濃い花色から、カンヒザクラと地元に産するオオシマザクラの雑種だろうと考えられています。そのほかにも、開花期が早い特性からカンヒザクラを親とする品種改良がいろいろと進められ、そのような改良品種と思われる桜も県内で見かける機会が増えています。


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