■根も幹も勇壮な、町で一番の巨木
このイチイガシは「村吉の天神さん」とも呼ばれ、古くから地元の崇敬を集めてきました。第二次世界大戦の前までは、近くに「天神田」と呼ばれる水田があり、この樹にお供えする米を収穫していたそうです。祭も毎年行われていましたが、戦後の農地解放で天神田がなくなり、祭も途絶えてしまいました。
この樹は花房台地の南西にある村吉の集落の、合志川(こうしがわ)に潤される水田地帯を見下ろす場所にあります。この樹の最大の特徴は、大地を鷲掴みするように節くれ立った塊になっている、根の張りようです。この「根上がり」現象は、明治2年(1869)この地に村吉小学校を建設したときの工事が原因とか、台地の緑に近い場所で阿蘇の火山灰土壌が長年の間に洗い流されたためとかいわれています。
しかし、そんなことよりも、子どもたちがジャングルジムのように根と根の間の空間を遊び場にしている、要塞のようにも大きなタコの足のようにも見える根の姿に素直に驚いてください。
また、根だけに眼を奪われるのではなく、落ち着いて上を見上げると、幹や枝張りの見事さに老樹の大きさと風格を感じます。以前は竹林や樹林に囲まれて風害から守られていましたが、近年の大きな台風で傷ついただけでなく、その後は風当たりが強くなって樹勢が衰えたようだと心配する人もいます。昔の姿を知らずに見れば元気に枝を張り、葉を茂らせているように思いますが、一日も早く以前の樹勢旺盛な状態に戻ることを祈ります。
この樹の近くに「札の辻」という地名があります。江戸時代に高札(こうさつ)が立てられた場所です。高札は、お上のお達しを人通りがある目立つところに掲げておくものでした。昔から合志郡(こうしぐん)と菊池の街を結ぶ交通の要所で、人々の往来も多かったのでしょう。また、この樹のすぐ近くに、明治8年(1876)から明治22年(1889)まで村吉小学校がありました。
ここの北から東に広がる花房台地は、阿蘇火砕流が堆積した肥後台地の北部の、菊池川と合志川とが削り残した平坦な台地で、第二次世界大戦中には陸軍飛行隊の飛行場がありました。昭和12年(1937)に日本陸軍飛行隊は、空・地の部隊を分離して飛行隊を飛躍的に拡充する計画を立て、九州での第1号として航空母艦の甲板のような地形を生かした菊池陸軍飛行場(花房飛行場)を建設しました。
その場所は現在の泗水町の菊池農業高校のあたりで、面積はおよそ150ヘクタール、昭和15年には太刀洗陸軍航空隊の菊池分所となって数多くの航空機が駐在し、特攻隊の訓練や後方支援を行う基地でした。まだ十代後半や二十代前半の若い飛行兵たちは、赤とんぼと呼ばれる訓練機などでの厳しい訓練を経て、この花房飛行場に別れを告げ、各地の特攻基地での特攻命令が下るまでの滞在後、戦場へと飛び立っていったのでしょう。基地の施設の一部であった給水塔、格納庫、弾薬庫、通信学校の門柱などが現在も戦跡遺跡として保存され、給水塔は現在も使用されています。飛行場は戦争の末期まで繰り返しグラマン戦闘機など小型機の空襲を受け、激しい機銃掃射を記憶している人もあります。また、給水塔などの遺跡に残る生々しい弾痕からも、当時をうかがうことができます。
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