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  老樹名木詳細
 
滴水の銀杏(たるみずのいちょう)


■地域の目印になる大イチョウ
 滴水(たるみず)地区は国道や県道など大きな道路に接していませんが、少し高くなった竹林の上に樹高42メートルにも及ぶこのイチョウの巨樹がそびえているので、この樹の存在を意識して見れば遠くからでも集落の位置を知ることができます。とくに秋の黄葉のときには、緑の竹林や屋敷林の上に黄金色に輝く樹冠がそびえているので、誰でも見つけることができます。
 また、イチョウの樹形は先端が尖った三角錐の形をしているのが普通ですが、この樹は丸いドームのような形をしています。樹に近づいて見るとわかりますが、樹幹は五本の株が集合したような形で一体になり、それぞれから分かれた枝が絡みあったように伸びています。そのため複雑な樹形になって丸い不思議な形になっているのです。
 この樹は龍雲庵という寺の跡にあり、根元には今も阿弥陀堂があって古い阿弥陀如来坐像が安置されています。また、天文2年(1533)の銘がある小佐井掃部頭(こさいかもんのかみ)の板碑や五輪塔もあります。また、この樹は「火事を防ぐ神木」として崇められ、毎年3月26日に行われる滴水地区の「いちょうの木さん祭」では、幹の周囲に注連縄を張って手を合わせ、みんなで火事が無いようにと願をかけます。
 イチョウに火除けを祈る風習は全国に広く行われ、火事のときに水を吹いて火を消したという伝説も各地に残されています。また、東京で目立つ巨樹にはイチョウが多いことが有名ですが、これは火に強いイチョウの性質が大きく関係しています。「火事と喧嘩は江戸の花」といわれたように、江戸は火災の多いことで有名でした。木造家屋が密集する江戸の町は、一度出火すると次々に延焼して江戸城内にまで飛び火した大火もあるくらいです。そのようなときには、たいていの樹木は焼け死んでしまいますが、イチョウは樹皮にコルク層が発達しているので火に耐えることができます。また、地上部が完全に枯死するほどの被害を受けても根が生き残り、地下に蓄えてあった養分を使って芽生えて育つこともあります。そのように焼野原の中に生き残ったものが巨樹にまで育ち、現在の東京でもイチョウの巨樹が多いのです。
 滴水の人々は祭のときだけでなく、日常の生活の中でもこの樹を大切にし、交代で樹の周囲の掃除などをしています。しかし、秋が深まって落ち葉の季節になると、樹が大きくて樹勢盛んに繁茂しているだけに落ち葉の量も並み大抵ではなく、足が埋まるほどに積もってたいへんな作業になるそうです。

■イチョウと白蛇伝説
 この樹には「白蛇伝説」があります。
 昔々、増田門三郎という若者が滴水に住んでいました。ある日門三郎は、村の者が「いちょうの木さん」と呼んで崇めている樹を眺めながら「毎年稲刈りに忙しいときにたくさんの落ち葉を散らして掃除が大変で迷惑だ、いっそのこと伐ってしまおう、伐ってしまえば薪になって掃除も必要なくなり、村の者は大助かりだ」と思いつきました。そして、さっそく明日にでも伐り倒してやろうと決心しました。その夜、門三郎は眠りにつくと、自分がこの樹の前に立っている夢をみました。すると、小佐井掃部頭の板碑の後ろから、透きとおるように美しい女の人が現れ、「この樹を伐らないでください、この樹は私の住家です」と哀願しました。門三郎は困り果て「伐らぬなら、何か良いことでもあるのか」と聞きました。女の人は「わたしはこの樹の根元の阿弥陀堂に安置されている阿弥陀如来様をお守りしています。阿弥陀如来様は、毎日朝早くからこの樹の周りを掃除する村人の心がけを喜ばれ、村の皆さんの健康を祈り、この村に豊かな実りを約束してくださっているのです。このイチョウの木のある限り、わたしはここを住家として、その阿弥陀如来様をお守りします」と言うと、ふんわりと樹の中に消えました。目を覚ました門三郎が樹のところに駆けつけると、真白い小さな蛇が枝の間に現れて、じーっと門三郎を見つめていました。女の人は白蛇の化身だったのです。門三郎は樹を伐ることを止め、イチョウの樹は生き残ることができたというお話です。

■田原坂の激戦を見たイチョウ
 「滴水の銀杏」の北西4キロメートルのところに、西南戦争の古戦場・田原坂(たばるざか)があり、民謡にも「雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂」と歌われた激戦地として有名です。しかし、明るく晴れた日に現代の目で田原坂の地形を見ると、平坦な植木台地が玉名方面に舌状に突き出した尾根にある坂道で、下と上の標高差は70から80メートル程度のなだらかな坂ですから、何故ここが最大の激戦地になったか疑問に思うかもしれません。
 まず第一に、薩軍が坂の両側に堡塁(ほるい)を幾重にも構築していたといっても、何もこの坂道にこだわらずに別の道、または、道はなくても周囲の田畑や山を通って攻めたら良さそうに思えるからです。しかし、進軍するときには大砲や弾薬や食糧など戦争に必要な物資を大量に運ばなければなりませんから、牛馬や荷車が通る道の確保が絶対に必要なのです。また、現代のように道路網が完備した時代ではありませんから、県北部から熊本に通じる道は南関から山鹿経由の道と玉名から田原坂を通る道の二つで、途中の要害の地である山鹿の鍋田と田原坂を「取るか取られるか」で激戦が行われたのです。
 田原坂は一の坂、二の坂、三の坂に分かれ、現在は自動車にあわせて改修されていますから、簡単に現場を散策できます。しかし、未舗装の凹道(おうどう:周囲より低く作られた道)だった昔を考えると、いくら大砲の弾を撃ち込んだ後に攻めるとしても、守るに易く攻めるに難い地形だと理解できます。この坂の上を薩軍が守り、下から官軍が3月4日の総攻撃から3月20日まで17昼夜の死闘を繰り広げたのです。この間、官軍だけでも一日平均32万2千発余りの弾丸を撃ったそうです。薩軍の弾丸数は記録にありませんが、補給が十分な官軍よりは少なかったとはいえ、ずいぶんたくさんの弾丸を撃ったはずです。坂の上は現在「田原坂公園」になっており、西南戦争で戦没した官薩両軍の14,000人といわれるすべての氏名を記した、大きな西南役戦没者慰霊之碑や資料館などがあります。

■植木町田原坂資料館展示の「空中かちあい弾」
 資料館の展示品で驚くのは、官薩両軍の発射した弾丸が空中で正面衝突して合体したものです。というのも、このような正面衝突の証拠が残っていることは、接触事故のような衝突もたくさんあったことを示しています。大部分の弾丸は衝突しないで真っ直ぐに飛んだでしょうから、いかに多くの弾丸が飛び交う激戦だったかがわかります。
 今年は近代日本産みの苦しみだったといわれる西南戦争から130年にあたります。田原坂や熊本城だけでなく、県内には西南戦争の遺跡が各地にあり、それぞれにいろいろな物語が伝えられています。130年の節目にあたってそれらの遺跡を訪ね、日本近代化の光と影について改めて考えるのも意義深いことです。「滴水の銀杏」は、植木町の南にある向坂(むこうざか)の戦(2月22日夜)で、乃木希典少佐が率いる官軍の小倉聯隊が薩軍に聯隊旗を奪われたときの銃声から、何十万発も撃ち合った田原坂攻防戦の響きなど、この戦いの一部始終を見聞きしたことでしょう。そして、滴水など地元の人々が軍夫に徴発されたり炊き出しに駆り出されたり、恐ろしい目にあった状況をも見つめていたはずです。


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