■湯の町山鹿の繁栄を高台から見つめる古木
樹齢750年といわれる老樹ですが、ムクノキにしては珍しく素直に伸びた元気な樹です。清滝神社は湯の町・山鹿の繁華街に囲まれた高台にありますが、神社の横まで繁華街が迫っているので、下から見上げても神社や巨樹があるとは思えない環境です。しかし、露地を抜けて神社に入ると、突然大きく枝を広げて社殿を覆っているムクノキが目の前に現れます。
幹は真っ直ぐに高く伸びていますが根元が大きく張り、いかにも揺るぎのない安定した印象を受けます。地上3メートルでの幹囲は5.2メートルですが、根張りが目立つようになる地上1メートルでの周囲は7.2メートル、地上30センチでの最も目立つ形の根回りは約12メートルもあり、根元の立派さに圧倒されます。この樹の右側の台地の縁近くにもムクノキがあり、地上2メートルでの幹囲が3.5メートルとやや小さいとはいえ、根が面白い形に現われた姿のよい樹です。
地元の人の話では、30年ばかり前はよく茂って夏でも涼しく、子どもたちの遊び場でした。昭和40年ごろまでは温泉祭のときにここで子ども相撲が行われ、その頃は高い建物がなかったので、高台にあるこの樹は遠くからもよく見えました。樹の近くに手押しポンプのついた井戸があり、じゃんけんで負けたものが一生懸命ポンプをついて水を汲み上げ、みんなで声援を送りはしゃいだそうです。
ここは山鹿城の跡で、この城は湯町城(ゆまちじょう)、清滝城(きよたきじょう)、上市城(うえちじょう)とも呼ばれ、菊池家の祖・菊池則隆(のりたか)の次男・西郷太郎政隆(まさたか)から出た山鹿氏代々の居城でした。豊臣秀吉が天下を平定して戦国の世が終わったとき、肥後を治めに来た佐々成政の検地強行に反発した豪族たちが肥後国衆一揆を起こしました。城主の山鹿彦次郎重安(しげやす)は伯父の菊池城主・隈部親永(くまべちかなが)に従って戦いましたが、秀吉の大軍に敗れ、切腹させられました。
この地は、山鹿氏が城を築く前は像成寺(ぞうじょうじ)という寺があった跡で、その寺に由来する地蔵尊が今も火除け地蔵として祀られ、昭和46年の山鹿市の大火の際にも地蔵尊のところで火が止まったそうです。山鹿氏が滅んだ後、城跡には小さいお宮が建てられ、清滝神社と呼ばれるようになりました。清滝神社の椋は樹齢750年といわれていますから、城が建てられる前の像成寺のころから存在し、この地が寺から城、そして神社へと移り変わる歴史を、また眼の下に展開される湯の町山鹿の人々の生活を、じっと見つめてきました。
葉の茂みの隙間から周囲を見渡すと、すぐ前にプラザファイブなど山鹿市中心の施設群が眺められます。その視野の中から現代の建物を消し、自然の地形を考えながら周囲を見回してみると、ここが弥生時代から耕作が行われ中世には菊池氏の活動を支えた穀倉地帯・菊鹿盆地を支配する要害の地であることが理解できます。
この地にある山鹿温泉は歴史ある温泉で、伝説によれば傷を負った鹿が湯浴みして傷を癒していることから発見されたといわれています。また、平安時代に書かれた「和名抄(わみょうしょう)」(934年)に「肥後の国山鹿郡の『湯泉郷(ゆのごう)』」と記されていることからも、古くから温泉場として広く知られていたことがわかります。「山鹿千軒盥(たらい)なし」と「よへほ節」に唄われるように、洗濯に掛け流しの湯を使うので盥は不要という湯量の豊富さは、昔から山鹿温泉の自慢でした。質の面でもまろやかな肌触りの湯で、宮本武蔵も疲れを癒したという記録が残され、武蔵の像が湯の端榎(樹齢400年)の横に建てられています。また、和紙とのりだけで作る灯籠はきらびやかで、8月16日の夜に行われる山鹿灯籠まつりは、大宮神社への灯籠奉納と千人灯籠踊りで全国に知られています。
この山鹿温泉界隈の豊前街道に沿う町並みは、都市景観大賞である今年の「美しいまちなみ大賞」(国土交通大臣賞)を受賞しました。
長い変遷の歴史を生き抜いた老樹は、昔も今も変わらずに山鹿の町並みと繁栄を見守り続けています。
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