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  老樹名木詳細
 
日輪寺の羅漢槇(にちりんじのらかんまき)


■歴史ある寺の境内に聳えるラカンマキ
 国道3号を菊池川にかかる山鹿大橋を渡って3キロメートルほど真っ直ぐに進んだ右側に医福山日輪寺があります。この寺は4月中旬から下旬にかけてツツジが見事に咲き誇ることで有名ですが、その楼門を入ってすぐ右手にあるのが「日輪寺の羅漢槇」です。この樹は、南北朝時代にこの寺を再興した菊池武時が自ら手植えした樹と伝えられている老樹で、成長の遅い樹が長い時間かけて育った歴史の重さが感じられます。引き締まった印象の主幹がどっしりと立ち、高くそびえて上の方でいくつにも枝が分かれ、樹勢盛んに茂っています。
 ラカンマキはイヌマキの変種で、葉がイヌマキよりも小さくて幅が狭く、枝に密生して着きます。また、枝が斜め上の方向に伸びるのも特徴です。イヌマキよりも上品な感じがするので、庭園や生垣に使われることが多い木です。なお、ラカンマキという名は羅漢槇の意で、種子とその下に発達する仮種皮(柄の上部のふくれた部分)の形を、羅漢の首と胴に見立てた名前です。ただし、母種のイヌマキの種子と仮種皮も同じような形をしていますから、ラカンマキだけが羅漢様の形をしているのではなく、両者の区別点にはなりません。また、赤く熟した仮種皮は多汁質で甘味があり、イヌマキ同様に食べられます。なお、この樹は羅漢槇と呼ばれていますが、樹種としてはイヌマキです。

■赤穂義士の遺髪が眠る日輪寺
 日輪寺は天慶(てんぎょう)3年(940)に国司だった尾藤隆房が建立した天台宗の寺ですが、正和5年(1316)に菊池武時が禅宗(曹洞宗)の寺として再興しました。楼門にかかる梵鐘は承平5年(1356)の鐘造で、肥後三大銘鐘の一つに数えられています。境内には菊池武時の息女・素覚尼の五輪塔、昭和2年(1765)に山鹿の俳人が芭蕉を慕って建てた句碑・蛍塚、33基の石体観音などがあり、この寺の由緒の深さ、歴史の古さを物語っています。
 この寺で今なお人々に慕われているのが、「忠臣蔵」で有名な赤穂義士の遺髪塔です。主君・浅野内匠頭長矩の仇である吉良上野介義央の屋敷に斬り込み、首尾よく本懐を遂げた赤穂の浪士たちが泉岳寺にもどり主君の墓前に報告したまでは有名な話ですが、その後は処分が決まるまで大名家に預けられました。細川家もその一つで、家老の堀内伝衛門を責任者にして大石内蔵助をはじめ17人を預かることになりました。幕府からの沙汰が届くまでの50日間、義士たちの忠節に感動した伝衛門は日夜心を込めて接待に明け暮れました。
 切腹を仰せつかった内蔵助以下17人の遺体は、彼らの遺言により浅野家の墓所である泉岳寺に葬られましたが、伝衛門はせめて遺髪を頂きたいと願い出ました。許しを得て遺髪をもらい受けた伝衛門は、自らの菩堤寺である日輪寺の境内に義士の霊を慰める遺髪塔を建てました。ここでは毎年2月初旬に義士まつりが行われ今も参拝の人が絶えません。


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