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  老樹名木詳細
 
魚貫崎の雀榕(おにきざきのあこう)


■集落の目印、海から見える大樹
 海に面した集落に緑濃いアコウの大樹が茂る佇まいは、いかにも天草らしさを強く感じさせる風景でした。しかし、アコウは風景を作る飾りとして存在しているのではなく、この木は海水をかぶっても負けず強い風にも耐える性質から、防風・防潮という実用上の理由で育てられてきたものです。木造で屋根は茅葺きが普通だったころ、しっかりと枝を張って丈夫で折れにくいアコウは、強い台風の風が海から直接に吹き付けるときに、村人と力を合せて集落を守ってくれる頼りになる仲間でした。
 また、アコウのあるところには水が湧き、アコウの大樹は沖を運行する船に水の存在を知らせる目印だったといわれます。たしかに、アコウの根本に水を湛えた泉があることはありますが、どこでもそうだとはいえません。むしろ、人の住む集落では防風・防潮の仕事を担うアコウを大切にするので大樹に育ち、そこに行けば必ず生活用水が確保されているという意味で「水探し」の目標になり、船繋ぎの木としても使われたのでしょう。

■海水に負けないアコウ
 海から離れた生活をしていると理解し難い話ですが、植物にとって塩水を浴びることは「青菜に塩」という言い方があるように、細胞の中の水を奪われて死に至るほどの災難なのです。台風が通過した後、とくに雨の少ない台風のときには相当内陸部まで塩害によって草木の葉が変色し、ときには枯れることもあります。とくにイネが被害を受けたときには大きな話題になりますから、記憶している人も多いでしょう。これは霧状になって飛来した海水が葉に付着したのに、それを洗い流すほど雨が降らなかったために起きた現象です。アコウは波しぶきが直接かかるような場所に繁茂できるほど海水に耐える力が強いので、自分は海水まみれになって潮風に立ちはだかり、集落と周辺のものを防いでくれているのです。
 ところが、最近はコンクリートや金属などの材料を使って家屋が頑丈になり、以前ほど強風を恐れない人が増えてきました。また、護岸や防波堤などの工事が進んで海の脅威が軽減され、海岸周辺が近代化されてくるとこれまで防風・防潮の役目を担っていたアコウが邪魔物扱いされるようになり次々に失われてきました。しかし、ここ魚貫のように天草灘からの強い風が吹き込む漁港で、大きなアコウが地域の生活を守ってきたことが実感として記憶され、緑陰の価値や景観の重要な要素であることを意識している地区では、大切に何本も並んだ状態で残されているのです。
 このアコウは魚貫港周辺で最大の株で、民家の敷地の中から石垣に根をしっかりと絡めて立ち上がり、石垣の外の道路上に身を乗りだすように伸びています。豊かな緑陰となっている道路側から見るのも良いのですが、敷地内に入れていただいて後ろ側から見ると、根本から続く大きな幹の力強い姿を堪能できます。この樹が済んだら残りのアコウも順々に見て回り、それぞれの個性的な表情を楽しんでください。

■民謡に残る魚貫の漁業
 ここの地名は「おにき」で、魚貫と書きますから「うおぬき」が訛ったのかと考えますが、そうではなく「鬼来」に由来するという説があります。それは、文化や言葉が異なる外来者を鬼と呼び、そのような人の来るところだから「おにき」と呼ばれたというのです。ここでの外来者としては東シナ海を挟んだ対岸・中国大陸の人が考えられ、近くには唐干田(とうぼしだ)とか唐人瀬(とうじんせ)など「唐」の字がつく地名も残っています。7~8世紀に遣唐使の船が難破して漂着したことも記録されていますが、それは朝廷に報告する必要があるから記録されたので、報告する必要のない漂着などの接触や交流はいろいろ形で行われていたことでしょう。
 魚貫は昔から「シイラ漁」「ボラ漁」「イセエビ漁」が盛んな漁港として知られています。シイラは熊本県では普通「まんびき」と呼ばれ、熊本市では9月の藤崎宮の大祭や秋分の日前後によく食べる習慣がある馴染み深い魚です。全世界の暖海に広く分布する魚で表層を群れて回遊し、九州では天草西海岸が好漁場です。「まんびき」とは群に遭遇するとどんどんと「万匹」も釣れるという意味の名前です。流れ藻などの下に群がる習性があるので、人工的に陰を作って集まった群を巻き網や釣りで獲ります。
 また、ボラも魚貫では多量に漁獲する網漁が有名で、天草市の民俗文化財の民謡「魚貫草刈り歌」では、魚貫の女性がボラ漁に来ていた島原の青年と恋に落ち、彼が島原に帰った後は「何を楽しみに麦を刈ろうか」と歌っています。イセエビについてはとくに伝わる話題や歌はありませんが、これがこの地域の代表的な豪華なご馳走であることは誰も異議のないところです。
 同じく天草市の文化財で、牛深(うしぶか)を代表する民謡ハイヤ節は、牛深から船乗りによって全国に伝播して、佐渡オケサ、北海道のソーラン節、徳島の阿波踊りなどの源流になったことで有名です。また、ハイヤとは「はえ」の風、つまり南の風に由来する囃(はやし)で、その間の手に「魚貫まんびき(シイラ)、茂串(もぐし)鯖(さば)、宮崎鰹ん(カツオの)骨横ぐわえ、加世浦(かせんな)きんなご(キビナゴ)逆すごき、天附(あまつけ)渡れば室鯵(むん)の魚(いお:むろあじ)、三ごん(3匹)なめたら(食べたら)どっとした(腹一杯になった)」と、北から南に集落ごとの代表的な魚が歌い込まれています。

■魚貫炭鉱跡と遠見岳見張番所
 魚貫には、江戸時代末期の天保年間(1830~1843)に採炭が始まった南部炭田で主要な位置を占めた魚貫炭鉱がありました。ここは良質な無煙炭を産することで有名で、軍艦の燃料として海軍に納入し高い評価を受けていました。昭和の初期には機械化されて採炭量が増え、大きな船が入港して石炭の積み出しをしていました。現在のように道路が整備されていない時代には牛深とは山一つ隔てた独立国のようで、漁業・農業・炭鉱の村として景気の良い時代が続きましたが、昭和48年(1973)には南部炭田最後の炭坑が閉山となり坑口を残すだけとなりました。しかし、これらの炭坑跡は産業遺産として脚光を浴びつつあります。特に、最南部の烏帽子坑跡は海上に残る貴重な海底炭坑跡として天草市の指定文化財となり、赤土と松ヤニを混ぜて接着された半アーチ型の赤煉瓦の炭坑跡を海上にとどめています。
 また、アコウの樹から車で5分ほどのところに「遠見岳(とおみだけ)見張番所跡」があります。天草西海岸の牛深から富岡の間は重要な航路でしたが、よく時化(しけ)るところでした。特に北や西の風が大陸から吹きつける冬の寒い時季には大変な難所で、寛永18年(1641)遠見岳山上に見張番所が作られました。
 近くの茂串の海浜や牛深の港を守る位置にある下須島(げすじま)の砂月の海浜は、南の海から北上してくる黒潮の分流・対馬海流が直接当たる美しい海と砂浜が有名な海水浴場です。


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