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  老樹名木詳細
 
登立天満宮の船繋ぎ樟(のぼりたててんまんぐうのふなつぎくす)


■航海の安全を見守ってきた船繋ぎのご神木
 大矢野町の旧国道沿いの登立(のぼりたて)地区に鎮座する登立天満宮の境内に、大小の枝を四方八方に伸ばして樹勢良く茂っている大きなクスノキがあります。この樹が「船繋ぎの樟」と呼ばれるように、昔は東北の方向から入り江が深く入り込み、その最奥部である神社の石垣のあたりまでが海だったのです。今では埋め立てられて周囲を道路と住宅で囲まれていますが、そう思って周囲の地形を見回してみると、現在の港から遠く離れた位置まで入り込んでいた海の形など、昔の面影が見えてきます。
 このクスノキは神社の石段を登って鳥居をくぐった左側、道路から見上げる石垣の上に立っています。現在の道路よりも5メートルくらい高いので、入り江が干拓される前の海面より随分高いことになります。それで、船を繋ぐにはずいぶん長い網を使ったのか、実際は海岸に近いほかの樹木に繋いでいたのかとも考えられます。または、この樹が天満宮の境内にあるので航海の安全を祈願するご神木として崇められ、「船繋ぎの樟」と呼ばれたのかもしれません。

■登立天満宮と天草・島原の乱
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで東軍についた肥前(佐賀県)唐津城主・寺沢広高は、慶長8年(1603)に、敗れた西軍の小西行長の領地の一部であった天草の土地を与えられ、慶長10年(1605)、貧しい農民たちの大きな犠牲のもとに富岡城を築いて天草を支配しました。キリシタンの保護者を失った天草では、以来、寛永14年(1637)の天草・島原の乱まで、過酷な年貢の取り立てに加えて厳しいキリシタン弾圧が続きました。
 天草・島原の乱は、それに耐えかねた人たちが死を決してほう起した、わが国の歴史上最も大きな宗教戦争であり、農民による一揆であるといわれます。キリシタン大名であった小西の残党は大矢野島などに隠れ棲み、16歳の美少年天草四郎をリーダーに、農民までを結集した一揆軍を組織します。大矢野島はその天草四郎が生まれ育った島とも伝えられ、天草・島原の乱の中心に位置する島でした。四郎の率いる一揆軍のシンボルとなった陣中旗は、十字軍旗、ジャンヌダルク旗とともに世界三大聖旗といわれますが、国の重要文化財に指定されています。この陣中旗は、少し離れますが天草市(旧本渡市)の天草切支丹館に展示されています。また、国道266号沿いの天草四郎メモリアルホールがある公園に建つ四郎像の墓碑銘には、「寛永15年2月28日、原城(はらじょう)内の会堂に於いて細川藩士陣佐左衛門のために討たる。年、時に十六歳の蕾であった(後略)」と刻まれ、端正な顔立ちの少年が右手を高く上げ、左手を胸に、天草の海を高台から見つめています。
 登立天満宮は登立菅原神社とも呼ばれるように、祭神は菅原道真(すがわらみちざね)公です。昭和初期に各地区の神様を鎮座させたため、その他に平影清(たいらのかげきよ)、大物主神(おおものぬしのかみ)、須佐之男神(すさのおのかみ)、猿田彦(さるたひこ)、加藤清正なども祀られています。創立は寛永年間といわれ、登立の休谷に鎮座していましたが、寛永14年(1637)の天草・島原の乱が治まった寛永17年(1640)に現在の鳥居のある場所に移り、さらに明暦2年(1656)に現在地に遷座しました。現在の社殿は平成元年(1989)に再建されたものです。

■夏の夜に行われる「うそ替え」の神事
 毎年7月24日の夏祭では夜に「うそ替え」が行われ、大勢の参拝客で賑わいます。「うそ替え」は菅原道真公を祀る天満宮で行われる祭日神事で、一般には1月7日か25日に行われるものですが、ここでは夏祭として行われます。「うそ替え」は、道真公のお使い鳥である鷽(うそ)の木彫り、または、鷽を印刷した札を買い、参拝者同士で「替えましょか」「替えよ」と交換し合って回ります。そして、群集に紛れ込んでいた神官の持つ「金うそ」あるいは「あたり札」を最後に替え持っていた人がその年の幸運を得るという神事です。
 登立天満宮の「うそ替え」は、道真公が太宰府で蜂に襲われたとき、鷽が現われて蜂を撃退したとの伝説にちなんで、昭和2年(1927)に始められました。参拝者は白木で作った厄除けの鷽鳥を交換しあい、幸運な人が鷽鳥に記入された番号により景品にあたります。この登立天満宮の夏祭りは県内でも有名な「うそ替え」です。

■大矢野島の表玄関だった登立港
 登立港は九州本土や天草の島々との交通を繋ぐ交通の要衝で、大矢野島の表玄関でした。天草五橋が架かるまでは三角(みすみ)港からの定期船が頻繁に発着する港として栄えたところです。天草架橋によって西側にバイパス(現在の国道266号)が開通するまでは、港の横を海沿いに走り天満宮の下を通る旧国道がバスの通る唯一の道で、登立にはバスターミナルがあって、島内を巡回するバスだけでなく、架橋後のバイパス開通までは本渡方面行きのバスなどもここから出ていました。
 大矢野島はたくさんの入江が深く入り込んで、海底に住むヒトデのような形をした島です。その入江の地形を利用して天草で最初の干拓が行われたことでも有名です。八代平野や玉名平野のような大規模干拓ではありませんが、農地の確保を目指して島の大きさに見合った小さい干拓が各地で行われました。そのため、現在では海岸から離れているにもかかわらず、登立地区だけでも「積米」「寄船」「西浦」「大潟」など海との関連を示す地名や「新田」のような開拓地名が残されています。

■全国に知られた「カスミソウ」と「クルマエビ」
 大矢野島は温暖な気候を利用した花卉栽培で有名です。人気のカスミソウは、熊本が全国一位の生産県ですが、ここ大矢野のものが多く出荷されています。神馬(じんば)という品種のボリューム感のある大輪ギクやカサブランカ、ハイブリッド系のユリなどの栽培も盛んです。
 また、大矢野島は九州の酪農発祥の地として知られ、早くからその進取の気性が目立っていました。クルマエビの養殖も県内最大規模で、全国でもトップクラスを誇りますが、これも明治38年(1905)に維和村(いわむら:現在の大矢野町維和)で始まったのが県内で最初です。その後、東京や関西方面に出荷され、昭和に入ると「肥後海老(ひごえび)」として市場の評価が高まりました。このほか、柑橘(かんきつ)類の生産も盛んで、外観が美しく、果肉が真珠色に輝くことから名づけられた上品な味のパール柑や、出荷時期が3月から6月と柑橘類の中では最も遅い天草晩柑(ばんかん)が有名で、晩柑の熊本県の生産量は全国トップです。
 また、宇土半島と天草上島を結ぶ国道266号は、この地域の名産品である真珠にちなんで「天草パールライン」と呼ばれています。「遅いあなたが主役です」のキャッチフレーズで知られる「天草パールラインマラソン」は、健康マラソンの草分けとして昭和48年(1973)に始まり、今では全国から多数の参加がある早春を飾る大矢野の風物詩です。


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