■全国的に珍しいナギの巨樹
水俣市の中心地から南東に、鹿児島県の大口市へ向かう国道268号を7キロメートルほど行き、水俣川を渡った対岸にある薄原地区のほぼ中央に熊野権現神社があります。その鳥居に向かって左側、低い石垣と柵で囲まれたところにナギの老樹が佇んでいます。幹囲3.9メートルで樹高は25メートルもある大樹なのに、威張って存在を誇示することなくそっと静かに立っています。
ナギは熊野権現のご神木なので、各地の神社に植えられているのをよく見かけます。しかし、ナギは成長の遅い木ですから、これほど大きいものは滅多にありません。比較のために数値をあげれば、国指定天然記念物の和歌山県新宮市の「熊野速玉神社のナギ」が幹囲4.45メートルで樹高17.6メートル、同じく国指定の愛知県豊川市の「牛久保のナギ」が幹囲3.5メートルで樹高15メートルです。なお、最大の熊野速玉神社のものは、もともと1株ではなくて数株が合着したものと考えられています。また、1株としては奈良の春日大社にある枯れた株の幹囲3.95メートルが最大といわれてきましたから、この薄原のものはそれらに劣らない全国でも第一級のナギの巨樹です。
■地域の崇敬を集めるご神木
主幹はどっしりと立ち、苔むして樹齢800年の風格をにじませています。主幹の根元には空洞が出来ていて、樹勢の衰えが心配された時期もありましたが、現在は枝葉もよく茂り樹勢も回復してきているようです。幹には注連縄が巻かれ地元の人々から大切に守られています。この樹は雌株なので夏から秋にかけては丸い実が鈴なりになり、10月ころに藍紫色に熟して目立ちます。
薄原神社は薄原地区にある村社ですが、由来などはよく分からず、肥後国誌にも記載がありません。しかし、このナギの樹齢は神社が古い時代から地域の崇敬を集めてきたことを示しています。一時、地表に根がせり出して傷ついて心配されたことがありましたが、地元老人会の約40人が「巨木を守ろう」と周辺の整備をしました。境内には、イチョウ・カエデ・サクラなども植えられて四季それぞれに美しさがあり、夏は豊かな緑陰を心地よい風が吹き抜け、地域の人々の憩いの場にもなっています。また、このナギの二世も根づいて大きく育ってきています。
■常緑で耐陰性の強い樹
ナギは本州西部から沖縄に分布する暖地性の常緑樹で、山口市小郡上郷の椹野川(ふしのがわ)に面した狐ヶ峰の一角(北緯34度6分)が分布の北限地として国の天然記念物に指定されています。熊本県内では南部の山林で見ることがありますが、もともとは植栽されたものだったり、植栽されたものの種子が芽生えて野生化したものが多く、明らかな自生と言えるものは確認されていません。神社や寺院では古くから植えられていますが、第二次世界大戦後は学校や公園などにも植えられるようになったので、多くの人の目に触れている木です。
ナギは耐陰性の強い樹木で、日当たりの悪い場所でもよく育ちます。もともとが暖地の照葉樹林に生える植物ですから、とくに幼木のときには繁茂する常緑樹に覆われた薄暗い湿り気の多い環境で生活してきました。その性質を利用して、建物の北側によく植えられます。高層化する都市の高架下など陽光不足の場所にも植えられますが、そういう場所は雨も当たりませんから、そこでは水やりが絶対に必要です。
■鹿が決して食べないナギ
奈良の春日神社には、約10ヘクタールのナギの純林があり、国の天然記念物に指定されています。南方系の植物であるナギが、熊本よりも北で内陸の奈良で純林を形成しているのは不思議な気がします。これは奈良名物の鹿がナギとイヌグスの幼木だけは食べないので、他の植物との生存競争がなくなってナギが育ちやすい状態が続いた結果だと考えられています。
近年、九州の山奥で鹿が異常に繁殖して問題になり、いろいろな被害が新聞などでも報道されています。そのような山では林床の草木が芝生のようになるまで食べ尽くされ、大きな幹にも鹿が突いたり囓ったりした痕がたくさんついています。鹿の旺盛な食欲と鹿の数が異常に増えすぎている事実に驚きますが、そんな林の中でヤマシャクヤクなどの有毒植物だけが食べ残され、大きく繁茂して花をたくさん咲かせています。これと同じ現象が春日神社では大木になるナギに起こり、それが遠い昔から現代まで続いているのです。
■柏(かしわ)は炊ぎ葉(かしぎは)
柏(かしわ)は「炊ぎ葉(かしぎは:炊事に用いる葉)」に由来する植物名です。現在では柏餅に使うブナ科のカシワを考えるのが普通ですが、もともとはヒノキ科のビャクシン(イブキ)のことでした。コノテガシワ(孔明柏ともいう)というヒノキに似た植物もありますし、この名は万葉集にも出ているそうです。また、万葉集ではイワヒバという葉が細かく切れ込んだシダ植物を「いとがしわ」と呼んでいます。
ビャクシン類をイブキともいいますが、イブキは「息吹き」の意で、下に細い口がついた土器の蒸し器で上の食べ物は落さず、下からの蒸気は通す仕掛けに由来するといわれています。つまり、大きな徳利の口に造園用に植栽されるカイズカイブキの紐のような枝葉の塊を詰め、ひっくり返した上に穀物を入れ、湯を湧かした鍋の上にぴったりと合わせて置き、鍋の湯を沸騰させるというものです。そう説明されると、土器の口に詰めた葉の間から湯気が噴き上がり、穀物が蒸し上がってゆく様子が見えるようです。
今ではブナ科のカシワが柏の主流になっているのは、炊事用具の進歩と、布が安価になって蒸し器の底には布を敷くようになり、枝葉を詰める方法が廃れてきたからです。もう一つの理由は、朴葉焼きといってホオノキの葉の上に味噌や肉・野菜などを乗せて焼く素朴な料理法が現在も生きているので、そのような利用や柏餅を包むことだけが「炊事に用いる葉」の形になってしまったからでしょう。
■竹と柏を組み合わせた名
ナギを漢字では竹柏と書きますが、これは竹のような葉の柏の意味で、葉脈が平行に走っている様子が竹に似ていると理解できます。柏の字を柏餅を包んでいる葉から想像すると理解できませんが、本来漢字で柏と書く植物は、古代の中国でも前述と同じように炊事に用いられていた常緑針葉樹です。常に緑色をしていて季節にあわせて色を変えることをしませんから、松と並んで節操の堅いことに例えられてきた木です。それで松柏(しょうはく)類と呼んだり、松ぼっくりのような果実ができる植物という意味で球果類と呼んだりもします。最近ガーデニングでコニファーと呼ばれる木が流行していますが、これはコーン(球果)ができる仲間という意味で球果類、つまり松柏類を指す英語です。
それらはソテツやイチョウなども含めて、植物学的にいえば裸子植物というグループに分類され、被子植物である普通の広葉樹とは多くの点で異なる植物群です。そのため、ナギを竹柏と書いた古代の中国人は、葉は被子植物の常緑広葉樹のように幅広いけれども、葉の質など多くの形質が裸子植物の常緑針葉樹に似ていることを見抜く、素晴らしい観察眼を持っていたといえます。
■緑の切れないナギ
葉が厚く葉脈が縦に通っているので引きちぎることは困難で、その強靱さからチカラシバという別名がつきました。地方によってはベンケイノナミダコボシとかベンケイナカセとかセンニンリキという方言名もあるそうです。また、「縁の切れない」ことを願って嫁入り道具の鏡台の一部にナギの葉を彫刻することも広く行われ、葉を帯や財布に入れて身につける風習もありました。
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