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海浦阿蘇神社の樟(うみのうらあそじんじゃのくす)


■国道3号を通ると必ず目にとまる大クス
 国道3号を熊本から鹿児島に向かって進んで旧田浦町の最南端、長い佐敷トンネルにさしかかる登り口の少し手前の右側にあります。ここを通れば必ず目に入るクスノキの巨樹です。しかし、明らかに見えているはずなのに気づかずに通り過ぎる人が多いようです。
 クスノキは、根が九州第一の幹線道路である国道3号の下まで伸びているとわかる場所にそびえ、一日中横を通る車の振動と排気ガスにさらされているにもかかわらず、元気よく育っています。根元に大きな空洞がありますが、新しい樹皮が両側から広がって穴を覆いつくそうとしているようで、たくましい生命力を感じます。

■海浦阿蘇神社の境内いっぱいに広がるご神木
 海浦阿蘇神社は、国道から海浦海水浴場方面に向かう県道水俣田浦線に入る角にあります。クスノキは、神社のあまり広くない境内の社殿と道路の間に生え、社殿を覆いつくすように枝を伸ばしています。その姿を、窮屈そうに生えているという人もあれば、一本の樹で神社を抱きかかえるように守っているという人もいます。根元に乗っかるように生えているひこばえも大きく育っており、それも一緒に注連縄が巻かれています。境内はきれいに掃き清められていて、地域の人たちが大切にしている様子がうかがえます。
 海浦阿蘇神社には健盤龍命(たけいわたつのみこと)と阿蘇都媛命(あそつひめのみこと)が祀られていますが、創建の時代など詳しくは分かっていません。なお、現在の社殿は明治2年(1869)に建てられたものです。

■薩摩街道の難所の三太郎峠と西南戦争
 国道から見上げる斜面の上、思いがけず高い位置に「肥薩おれんじ鉄道」の海浦駅が見えます。このあたり、八代市南部の日奈久(ひなぐ)から水俣市北の津奈木町の間は、九州山地の西端が不知火海に沈降してリアス式海岸となる地形で、薩摩街道の三太郎峠は九州縦貫の最大の難所として名が轟いていました。三太郎とは、北から順に赤松太郎峠、佐敷太郎峠、津奈木太郎峠の三つを纏めて呼んだ名です。江戸時代末期の紀行文「薩陽往返記事」に「山路さかしく岩石隙(ひま)なく、足の踏みところもなきほどなり」と記されているほどです。
 明治10年(1877)の西南戦争のときに、2月18日田浦に着いた薩軍の本隊が雪を踏んで肥後に侵攻してきたのもこの道です。明治36年(1903)に旧国道がつくられましたが、水俣出身の徳富蘆花もこの道を大正2年(1913)に客馬車で旅し、「死の蔭に」で「電光形の長坂」と、稲妻のように曲がった急峻な坂道であると描写しています。また、三太郎の中でも最大の難所である佐敷峠の下には赤煉瓦造りの佐敷随道(ずいどう:トンネルのこと)が明治36年(1903)に掘られ、現在も残っています。幽霊トンネルともいわれましたが、これは長いトンネル内に灯火がなく真っ暗で不気味なのと、山道でカーブが続き馬車などの悲惨な事故が相次いだからだといわれています。昭和40年(1965)の国道大改修で現在の佐敷トンネルが標高の低い位置に完成し、所要時間は半分に短縮されました。トンネルの長さは1600メートルですが、当時は驚嘆に値する長さで大きな話題になりました。旧国道は現在ほとんど使われなくなっていますが、明治の最新技術で作られた佐敷随道など近代土木遺産の道路施設が残り、平成14年(2002)国の登録文化財に指定されました。自然も豊かで、車で回るにしろ歩いて行くにしろ、他の交通にさまたげられないでのどかに楽しめるルートです。近くの湯浦(ゆのうら)や日奈久(ひなぐ)は温泉地として知られ、日奈久温泉は600年の歴史があります。

■「肥薩おれんじ鉄道」沿線は柑橘(かんきつ)類の産地
 北から赤松太郎峠をうまく避けて海岸を通ってきた鉄道が、最大の難所である佐敷太郎峠をトンネルで越えるためにはトンネルを短くする必要がありました。そのため、トンネルの入口は精一杯坂を登った上にあり、海浦駅も高い場所にあります。
 この鉄道は鹿児島本線だったのですが、八代から鹿児島県の川内(せんだい)まで116.9キロメートルの区間が九州新幹線鹿児島ルートの誕生により、平成16年3月13日に新しく「肥薩おれんじ鉄道」に生まれ変わりました。沿線には名前の由来にもなっていますが、キンカン・温州みかん・デコポン・甘夏・文旦(ぶんたん)・晩白柚(ばんぺいゆ)などの柑橘類の果樹園が広がっています。
 柑橘類が熟するときは、まさに黄金の果実がたわわに実る景色になりますが、その時期には果実を見て楽しむだけでなく摘んで食べる楽しみもあります。しかし、案外知られていないのが花の季節の見事さです。そのころ群生する柑橘類の香り高い花が咲き誇る中を香りに酔いしれたように歩くのも楽しいことです。

■クスノキのエッセンス、樟脳
 クスノキは樟脳を多く含んでいる植物として有名で、樟脳という名称そのものがクスノキのエッセンスという意味の言葉です。樟脳は植物体全体に含まれていますが、その含有率は根に17パーセント、幹に8.4パーセント、枝に3.7パーセント、葉に4.3パーセントという測定記録があるように、根元に近い方に多く含まれています。樟脳を製造するには、材を細く切断したチップを蒸し釜に入れて湯気を通す、水蒸気蒸留を行います。その蒸気を釜の外に導いて冷やすと樟脳と樟脳油が分離して水の上に浮かびますから、固化した樟脳と液体の樟脳油を分けて精製します。精製された樟脳は、白色半透明の結晶または結晶質の粉末で、独特の芳香があります。
 樟脳は防虫剤・防臭剤・医薬品として広く利用され、大切な衣服の保管には欠かせない重要な防虫剤でした。箪笥の中の香りとして記憶されてきた匂いですが、近年は工業的に作られるナフタリンやパラジクロールベンゼンなどが多く使われるようになりました。また、それらと併用すると化学反応を起こすということで樟脳が使われなくなり、その匂いが人々の記憶から消えかけています。樟脳を小さくカットしてセルロイドやプラスティック製の小さな舟の船尾につけて水に浮かべると、水面をすいすいと走り回ります。昭和40年代ころまでは縁日や夜市に出ていましたから、幼いころに遊んだ思い出とともに、樟脳の香りを記憶している人も多いでしょう。

■広く利用されるクスノキの材
 クスノキの材は樟脳を含んでいるので防虫効果があると、箪笥などの家具を作るのに用いられました。それとは全く別の使い方ですが、樟脳を含んでいると水湿に耐える性質が強いので、古い時代から船材として利用されたことで有名です。クスノキの材で作られた古代の丸太船が出土した例もありますし、もっと大きな船を造った話も伝わっています。
 阿蘇の小国町から大分県に抜けた玖珠(くす)郡玖珠町のJR久大本線(ゆふ高原線)の豊後森駅の南、国道や鉄道の車窓からもよく見える位置に伐株山(きりかぶやま)という、大きな木の切り株のような形の山があります。昔々そこには大きなクスノキがあって午前中は西側の村々が、午後は東側の村々が日影になるほど高くそびえ茂っていたそうです。その木を切り倒して大きな船を造り、そのときに残ったのが切株山だという伝説があります。さぞかし大きな船ができたことでしょう。玖珠という地名もそのクスノキに由来するものです。なお、この特異な山の形は近くの万年山(はねやま)と同じメサという火山地形ですが、本当に切り株そのものという形です。
 この豊後森駅から肥後小国駅までは全長26.6キロメートルの宮原線(みやのはるせん)が走っていました。この鉄道は昭和15年(1940)ころには道床までが完成していましたが戦時中の物資不足で中断し、昭和29年(1954)に開通しました。その後は菊池市の隈府(わいふ)まで延長するという話もありましたが、自動車交通の急激な進行によって昭和59年(1984)に廃線になりました。しかし、ローマの水道橋のように高くそびえるコンクリート造りのアーチ橋は、今もほぼ当時のまま残り、鉄道遺構として国の文化財に指定されています。この橋は物資不足で鉄筋の代わりに竹を使った竹筋コンクリート造りであるといわれるなど話題も多く、鉄道マニアでなくても多くの人が訪れます。また、肥後小国駅のあった場所には現在道の駅「小国」があります。
 クスノキの材は家具や建築材として重用されていますが、それは防虫効果とか水湿耐性とかだけでなく、成長が早くて大木が多いので広い板材が得やすいことと、材が堅硬で光沢や木目が美しいことが第一の理由です。また加工のし易さも長所で、床柱・欄間・腰板・天井板や彫刻・ろくろ細工・寄せ木細工など広範な用途に使用されています。


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