■悲しい物語とともに人々の心に残る、人吉・球磨地方一のモクセイ
猫寺として有名な生善院(しょうぜんいん)の山門は国道からちょっと石段を登ったところに建っていますが、その門の両側に置かれた狛犬ならぬ「こま猫」が来訪者を迎えます。門を入って右手の奥に茅葺(かやぶき)寄棟造り(よせむねづくり)の観音堂があり、その南側にウスギモクセイの巨樹が堂々と立ち、ねじれたように見える大きな幹が苔むして老樹の風格を漂わせています。人吉球磨地方で最大の木犀で薄黄色の花を数多く咲かせ、周囲一帯に甘い香りを漂わせて秋の深まりを告げます。
天正10年(1582)の人吉球磨地方は、9歳で第19代藩主となった相良忠房(さがらただふさ)の時代でしたが、湯山の地頭・湯山佐渡守宗政(ゆやまさどのかみむねまさ)と弟で普門寺住職の盛誉(せいよ)法印に謀反の疑いがかかり、藩は討手を差し向けました。その後、この疑いが誤りであることが分かって討伐中止の使者を送りましたが、その使者が途中で出された焼酎に酔っている間に、普門寺は焼かれ盛誉は討たれてしまいました。
このことを知った盛誉の母・玖月善女(くげつぜんにょ)は、その恨みをはらすため、市房神社に籠って21日間の断食呪詛(じゅそ)を行い、自分の指を噛み切り、噴き出た血を愛猫・玉垂(たまたれ)に嘗めさせました。そして、怨霊となって相良藩にたたるよう言い含め、猫を抱いて湯山の茂間が淵(もまがふち)に身を投じました。それから間もなく、盛誉を斬った侍が急死し、藩主の忠房が13歳で早死にするなど、相良家に次々に不幸な出来事が続きました。
慶長2年(1597)、第20代藩主・相良長毎(さがらながつね)は玖月善女と猫の霊を慰めるため、青井阿蘇神社に慈悲権現社を建立し、寛永2年(1625)には焼けた普門寺跡に生善院を建立しました。また、盛誉の命日である3月16日には市房神社に参って帰路には生善院にも参詣することを領民にすすめ、藩主みずからも実行したので怨霊の祟りもようやく止み、それからこの寺は「猫寺」と呼ばれるようになりました。また、相良藩は京都の仁和寺から盛誉に権大僧都の位を贈らせたり、領内の真言宗の各寺院に両名の位牌を作らせたりもしています。なお、市房神社への御岳(おたけ)さん参りは昭和30年ころまでは賑やかに行われていました。
観音堂の内部には鮮やかな色彩の唐様(からよう)の厨子(ずし)があり、阿弥陀如来像(盛誉の影仏)と千手観音像(玖月善女の影仏)が安置されています。この観音堂と厨子はともに国の重要文化財に指定されています。観音堂の外部は長い年月の間に漆や彩色が剥離していましたが、平成14年(2002)に文化財として修理され、黒光りする漆と鮮やかな彩色が映える、桃山時代の栄華を伝える華やかなお堂になっています。
境内には、悲しい出来事が起きた翌年に盛誉法印と玖月善女を供養したことを伝える、天正十一年(1583)の銘が火輪に記された五輪塔があります。観音堂の奥には、猫の玉垂の墓がありその脇に猫の足のように曲がった燈籠(とうろう)があります。このウスギモクセイは、観音堂建立のときに植えられたと考えられています。また、盛誉の墓標として植えられたヒノキは樹高33メートル、幹囲4.5メートルから5.3メートルの株3本が下部で密着した巨樹で、「猫寺の桧」として有名でしたが、昭和30年代の台風で倒れ、その根元がわずかに残っています。
■猫寺のウスギモクセイには実はならない
ここのウスギモクセイも古い時代から金木犀と呼ばれてきました。この地方では特別に中国渡来のギンモクセイを植えることはあっても、モクセイ類として普通この種類を植えて来たので、薄黄色(レモン色)の花を金色と思って金木犀と呼ぶのに誰も抵抗はありません。中国渡来で黄赤色(蜜柑色)の花が本物のキンモクセイだという本家・元祖争いのような話題とは無縁だったので当然のことです。
ところが、中国渡来のものがキンモクセイで、熊本県などで金木犀と呼んできたものはウスギモクセイと呼ぶように決まり、その基準で本や図鑑が書かれるようになると、いろいろな混乱がおきます。その一つが実がなる・ならないの問題です。キンモクセイは中国原産から雄株だけが渡来しているので実が稔ることはありません。それならどうやって繁殖させるのかということですが、挿し木で簡単に増やせるので問題はなかったのです。それに対してウスギモクセイは九州に自生する植物で雌株と雄株が揃っており、雌株なら花の後に実が稔り紫黒色に熟します。また、キンモクセイには実が稔らないことを本などで知り、「我が家では実がなる」と疑問に思う人がいます。しかし、それは金木犀と呼んでいても、実際はウスギモクセイの雌株ですから、種類を花の色で確かめてください。
ウスギモクセイは、花の後に紫黒色の実がたくさんなります。でも、ここ猫寺のものには実がなりません。それはウスギモクセイであるのは間違いないのですが、この樹が雄株だからです。この樹は毎年9月のお彼岸の頃にたくさんの花をつけ、10月半ばにもまた、9月に咲かなかったつぼみが全部開き、今年も今が満開です。
近くには、球磨川の対岸に球磨地方の田畑を潤している百太郎溝の取水口があり、百太郎溝に沿って下ってゆくと「樹齢400年の赤坂の槇」が、それより南の幸野溝の横に「樹齢300年の多良木菅原神社の石櫧群」があり、幸野溝の上流に「樹齢800年の城泉寺の槇」があります。同じく水上村に「樹齢800年から1000年の市房神社参道の大杉」「千ヶ平八幡の椋」「一の宮神社の銀杏」や、ふるさと熊本の樹木に指定された「安牧神社の鹿子木」があります。とくに市房山の山頂近くに多い県指定天然記念物「ツクシアケボノツツジ」は、葉が開く前に枝先いっぱいに淡紅色の花を咲かせるので、5月中旬の開花期には山麓から山肌が花の色に染まって見えるほどです。また、「市房ダムの桜」はダム湖畔に植栽された約10000本のソメイヨシノなどが見事です(花期は3月下旬~4月上旬)。
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