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  老樹名木詳細
 
多良木菅原神社の石櫧群(たらぎすがわらじんじゃのいちいがしぐん)


■仲間を代表して今に生き残るイチイガシ群
 国道219号から南に右折して田んぼの中の一本道を進むと、人吉盆地の豊かな田園風景の中にこんもりと茂った、いかにも鎮守の森という雰囲気の森が見えてきます。樹齢を重ねたクスノキやカシ類、ヤマザクラなどが混生する森ですが、一本道の農道を進んで森に近づくにつれて、一塊りに見えた森の中に抜きん出て大きい3本の巨樹があるのが見えてきます。それが町の天然記念物に指定されている多良木菅原神社の3本のイチイガシです。
 鳥居をくぐって拝殿に近づくと、まず参道の左側に注連縄を巻いた1本があります。さらに拝殿の裏に回り込むと真後ろに幹囲・樹高ともに最大の巨樹があり、拝殿の右斜め後ろに3本目があります。このうち、手前の1本は先の台風で倒れかかって支えがしてあります。
 菅原神社には菅原道真(すがわらみちざね)公が祀られています。九州にある菅原神社は、延喜3年(903)に道真公が亡くなってまもなく菩提を弔うために建てられた太宰府天満宮から勧請されたものが多いのですが、ここ多良木菅原神社は宝永年間(1704~1711)に京都の北野天満宮から勧請されたものです。道真公の没後、京都では醍醐天皇の皇子が次々に病死したり、御所の清涼殿に落雷があって多くの死傷者が出たりするなど異変が相次ぎました。それらの凶事は失意のうちに最期を遂げ、恨みを抱いて亡くなった天神様(道真公)の祟りだと恐れられ、それを鎮めるために天暦元年(947)に北野天満宮が建立され、天神信仰の中心になりました。また、この神社には10年ほど前に、近くにあった風の神様が移され、県立球磨工業高等学校の生徒たちが建てた立派な社が石で組んだ台座に設置され、毎年旧暦の7月4日に風の神祭りが行われます。それ以来、台風の大きな影響はないといいます。
 人吉球磨地方を800年にわたった支配していた相良氏は、イチイガシなどの大木を保護する政策をとっていました。そのため、この周辺にもイチイガシの大木が多くあったようで、このことを示す言い伝えや形跡が今も残っています。多良木菅原神社に隣接する福田寺(ふくでんじ)にも、地上5メートルくらいの高さで切られたイチイガシの大きな幹が3本立っています。
 福田寺には、この地域の人々から慕われる相良藩士・高橋七郎兵衛政重(たかはししちろうべえまさしげ)の自然石の大きな墓碑があります。高橋政重は、この神社や寺のすぐ横を流れる用水路「幸野溝(こうのみぞ)」を藩の事業として差配しましたが、最後は役人仕事の枠を越えて工事を完成させた人です。

■高橋政重と幸野溝
 「幸野溝」は、球磨川上流部の水上村(みずかみむら)幸野と湯前町(ゆのまえまち)馬返(うまがえし)の間に堰を作って取水したことに由来する名で、多良木町を経てあさぎり町の神殿原(こうどんばる)に至る灌漑用水路で、元禄9年(1696)に藩の事業として着工しました。しかし、当時の土木工事の技術水準は球磨川の力に及ばなかったため、せっかく作った施設が洪水で破壊されたり、トンネルが陥没したりするなど失敗と難工事の連続でした。その上に財政上の理由もあって藩の事業として継続が困難になったとき、工事の担当者であった高橋政重が私財を投じるなど個人の執念で事業を進め、宝永2年(1705)に9年の歳月をかけて完成させました。
 この水路が出来たことで、多良木菅原神社のある中原(なかばる)を中心に新たな村として新田村(しんでんむら)ができるなど、球磨川より南に広がる人吉盆地につらなる扇状地が豊かな耕地に変わりました。幸野溝完成当初に入植した農家は333戸にのぼったといいます。宝永3年に政重は、新田村の中央に多良木菅原神社と西隣りに福田寺を建立しました。宝永4年(1707)には、開かれた新田からの納米だけでも三千石に及びました。毎年9月25日には政重の徳を慕って神社と福田寺で慰霊祭と墓前祭が開かれます。ここのイチイガシは荒野に水路が掘られる工事の状況から開田が進む様子、その水田で稲穂が黄金色に稔って人々の生活を豊かにしていく変遷を見続けてきました。
 幸野溝と、次に述べる百太郎溝の2本の灌漑用水路が完成してから200年以上たった昭和33年(1958)、二つの溝を全面改修する「県営球磨川南部地区土地改良事業」が始められました。この事業は古い用水路を改修するだけでなく、取水口やトンネルの新設や、原野や畑地を水田化する水路の掘削なども行う全面的な改修工事で、昭和35年(1960)の市房ダムの竣工に伴い、あさぎり町の岡原(おかはる)から錦町の西村(にしのむら)に至る全長12.4キロメートル、灌漑面積498ヘクタールの「新幸野溝(しんこうのみぞ)」が完成しました。水の安定した供給によって、陸稲やさつまいもを栽培をしていた畑地が豊かな水田地帯へと姿を変え、飛躍的な生産向上に結びつきました。
 この大改修によって、素掘りのままで漏水の多かった土の水路はコンクリート張りの近代的な水路になりました。しかし、古い水路は水田に水を運ぶだけでなく、水路からの漏水という形で周辺一帯を潤してきました。それが目に見える形で現れていた現象として、灌漑用水を使わない時期になって幸野溝の流れを止めると、周辺地域の井戸の水位が低下し、井戸が涸れることもあったそうです。また、水路がコンクリート張りになったことで、そこに生活していた多くの動植物が生活する場がなくなったことも指摘されます。いかにも泥臭くて無駄が多いようにみえる古い工法は、不完全なようにみえながら、ちょっと気がつかない形で地域の環境形成に機能してきたことを考えておく必要があります。
 球磨地方では、母なる川、球磨川の水の恵みをもたらす堰(せき)の役割や歴史を知ってもらおうと、毎年「田んぼの学校」を開いています。今年は10月に、全線開通したばかりの球磨川サイクリングロードをめぐり、川の生態系や自然環境を学びます。このサイクリングロード沿いに自生する薄桃色のツクシイバラもまた、初夏の球磨川を彩る貴重な花です。


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