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  老樹名木詳細
 
毎床の椨(まいとこのたぶのき)


■美しい農村の景観にとけこむタブノキ
 JR肥薩線の那良口駅近くで球磨川に南から合流する那良川の谷に入り、しばらく行くと道は谷を離れて右側の斜面を登り始めます。その先で視界が開け、棚田やナシの段々畑が広がるあたりが毎床(まいとこ)です。ここは平成3年(1991)に、第1回熊本県農村景観大賞を受賞した大変景色の良いところで、とくに4月上旬から中旬のナシの花が咲く時期には、まさに桃源郷と言いたい素晴らしい景観になります。また、那良川の対岸、谷の東側には「日本の棚田百選」に選ばれた「松谷棚田」があります。
 その梨畑の間を通って登る小高い丘が、かつて毘沙門堂があった堂山です。そこの階段を最後に40段ほど登った先に形の良いタブノキがあります。よく目立つ位置に立っており、視界を遮るものもない場所なので、捜すのに苦労の少ない樹です。すぐ脇に観音堂があり、公民館やゲートボール場もあって一帯が地元の人たちの憩い場となっています。
 タブノキは暖地に広く分布する常緑広葉樹で大きく育ちます。県内でもより温暖な、とくに海に近い地域に多く見られます。ここは山の中のように見えても標高が300メートルはないところで、タブノキの生育には適した環境といえます。タブノキの材は緻密でやや堅く工作しやすいので、鉄道の枕木や船の材料など大きい頑丈なものだけでなく、箱や家具やさまざまな器具の材料として、広く多様な使われ方をしています。しかし、目立つ使われ方ではないので、たくさん生えている木なのに話題になることはあまりありません。実物の木を見ている人は多いのに、記憶に残らないのが普通のようです。また、里山に多くて薪に切られましたが、成長が早くてすぐに回復する、平凡で派手さがないのが特徴のような木です。

■枝葉は最高級線香の材料
 タブノキの利用で特記すべき、というよりも他では代え難いほど重要な使い方は、線香の材料になることです。クスノキ科の樹木ですから、葉を揉んで嗅ぐとクスノキに似た芳香があります。しかし、実際に嗅いで確かめると弱い芳香で、安物の線香にしかならないだろうと考える程度の匂いです。ところが、タブノキは高級な線香を作るのに必要な、重要な材料なのです。
 乾燥したタブノキの枝葉を石臼で搗(つ)いて作る粉を椨粉(たぶこ)といい、水を加えると粘り気が出て自由に形を整えることができます。しかし、これには芳香はありません。と言うよりも、無臭だからこそ伽羅(から)や白檀(びゃくだん)など高価な香木を加えて、最高級の線香を作ることができるのです。
 また、粘土のように丸めたり、細長く伸ばしたり、自由自在に形を整えることができます。粘土よりも粘り気があるので、ちょっと大げさに言えば素人でも針のように細く伸ばすこともできます。それらを自然乾燥させると、造形したとおりの形に固くなり、変形しません。そして、線香に仕上げたときの最大の長所は火持ちが良く、ゆっくりと同じ速度で燃焼し、灰が重いのでポトリと落ちて風で飛ばされないことです。線香の太さを変えて実験すると、太くすると燃焼速度が遅く、細くすると少し早くなります。

■わずかに残る椨粉の生産
 椨粉を作る工場は、以前は県内各地にありました。材料となるのはタブノキの枝と葉で、指よりも太い枝も一緒に石臼に入れて杵で搗いて粉にします。小さい谷川の流れを利用して水車を設置し、並べた石臼をその回転力で杵を上げては落としを繰り返し、一日中コットンコットンと搗くのです。谷川の流れが動力を供給する方式ですから、現代風に言えば最高のエコ・省エネタイプの装置でした。その工場が県内で唯一残っているのが、那良川の一つ下流で球磨川に流入する中津川にある木下製粉工場で、一勝地(いっしょうち)から谷沿いに少し登ったところにある、一勝地温泉「かわせみ」から見下ろす場所にあります。
 材料となるタブノキの枝葉は、葉がまだ薄い春の時期以外は、一年中採取して利用できます。地域の人たちは、手間の空いたときにまとめて採取してもよし、山に行くたびに持って帰れるだけの量をこまめに運んでもよしで、工場に届けていました。そのように少しずつ運んだ代金をまとめてもらったので、子どもにランドセルを買ったと喜ばれた話も聞きました。
 しかし、日本が豊かになって山にたくさんあるタブノキの枝葉を、丹念に集めて運ぶような仕事をする人が減ってしまい、この工場も椨粉の生産は中止し、材料が入手できる鹿児島県の工場だけで生産を行っているそうです。山に自然に生えているタブノキを必要なだけ採取し、何年か放置しておいて回復したらまた採取するのが普通でしたし、次に切るときに切りやすいように心掛ける人もいました。また、里山で薪をとるときタブノキだけは切らずに残すことで、タブノキを増やすことも行われました。宇土半島の付け根に耳取山という山がありますが、ここにはタブノキの純林が形成されています。これは植林したものではありませんが、椨粉の原料採取が目的でタブノキだけは残すことを長年続け、タブノキがよく育つように管理してきた結果です。

■全国に出荷されるブランド「一勝地梨」
 第1回熊本県農村景観大賞の受賞に大きく貢献したのは、段々畑に作られたナシの果樹園の、それも真っ白に咲く花で地区全体が覆われた景観でした。ここのナシは「毎床梨」とも「一勝地(いっしょうち)梨」とも呼ばれていますが、棚田を利用した段々畑で栽培されていることと、球磨盆地特有の気候である霧と朝夕の温度差によって育まれる、ほどよい甘さと歯触りを持つ果実であることが特徴です。
 毎床でナシの栽培が始まったのは大正元年(1912)で、毎床脇造氏が宮崎県からナシの苗150本を取り寄せて、毎床地区の「桐の久保」という場所に植えたのが始まりです。さらに毎床氏は、大正3年には仕事で訪れていた宮崎県の小林市から、当時普及しかけていた新しい青梨の品種「二十世紀」の接ぎ木苗を持ち帰りました。そのとき桐の久保に植えられた原木は約百年を経過した今も健在で、毎床のナシ栽培の歴史を見守りながら、果実を実らせ続けています。
 ナシ栽培の知識も少ない、文献や指導者にも恵まれない時代に、手探り状態で栽培を始めるのは大変なことだったでしょう。試行錯誤で失敗を乗り越えながら経験を積み、大正末期から昭和初期には生産も軌道に乗ってきました。しかし、販売の経路がなかなか確立できず、農家が協力しての生産・販売と銘柄を統一しての共同出荷体制を目指す組織、「一勝地果実組合」が正式に設立されたのは戦後の混乱が続く昭和23年(1948)でした。その後も多くの紆余曲折がありましたが、現在では県内有数の産地になっています。

■命の水を運ぶ毎床溝
 熊本県農村景観賞のトップを切って大賞に選ばれた理由に挙げられる、棚田とナシの段々畑が広がる美しい毎床の景観は、はるか前の江戸時代から営々と積み重ねられてきた人々の営みを基礎にしています。そして、その根本となっているのが全長8キロメートルの毎床溝で、上流から導かれたこの水路が現在52戸176人が暮らす毎床の集落と田畑を潤しているのです。集落内に張り巡らされた水路のあちこちには洗い場があり、炊事や飲み水だけでなく風呂にも汲み込まれていました。水道の完備した現在でも、野菜洗いなどに利用され続けるなど、潤いある地区の景観を支える基盤となっています。
 この地区は那良川の谷を低く見下ろす高地なので、昔は干ばつに悩まされるところでした。江戸時代に毎床地区の人たちは那良川上流の湯原地区に堰を築き、溝を掘って水を導いて毎床地区に水田を拓きたいと、当時の人吉藩主・相良頼峰に願い出て許しを得ました。その工事の記録が「溝筋萬覚(みぞすじよろずおぼえ)」というタイトルで地区の旧家に残っているので、いろいろなことがわかります。
 工事は寛延4年(1751)10月18日から宝暦3年(1753)3月13日までの1年5ヶ月で、堰や石垣積みや岩石割りなどに雇われた石屋・鍛冶屋には賃金のほかに米・味噌・塩・油・鉄などの代金も支払われ、その総額は銀2貫543匁6分2厘だったこと、毎床地区の住民は延べ8330人が出て働いたので35戸で平均すれば238日仕事をしたことなどがわかります。地区住民には通水後も新田開拓の仕事がありました。その他、地区外からの加勢人が渡利(わたり)地区から37人、一勝地地区から32人、那良川沿いの集落から441人とか、トンネルの総延長が54メートルで請負の石工は延べ307人で賃銀が756匁6厘だったなど、非常に貴重で興味深いことが記録されています。
 溝の取水堰は約4キロメートル離れた湯原地区にあり、那良川の左岸にほぼ水平な水路が毎床まで延びていますが、途中に数十メートルに渡って岩をくりぬいた2本のトンネルや、数メートルの段差もあります。
 昭和26年(1951)に堰・溝の大改修が行われて溝はコンクリートになりましたが、現在も大切に扱われています。毎年3月には水を止めて定期点検を行い、「井手普請(いでぶしん)」と呼ばれる修理作業を行います。溝が素掘りだった時代には、地区総出で1週間から10日がかりで溝に赤土を入れ木を叩いて固める大変な作業だったそうですが、水を止めるのでウナギやウグイ(球磨地方ではイダという)が獲れる楽しみもあったそうです。


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