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  老樹名木詳細
 
犬飼の銀杏(いぬかいのいちょう)


■見晴らしのよい丘に立つイチョウ
 通潤橋から約2キロメートル南、白壁の蔵が目立つ町並みを抜けて、どこにイチョウの巨樹があるのかちょっと不安になったころに案内板が見えてきます。そこから美しく手入れされた茶畑を眺めながら進むと犬飼の集落に出ます。公民館から先は車の離合が困難なので集落の中の道を歩いて行くと、視界が開けた先に九州中央山地の山々を背景に、馬の背のような尾根の高くなったところに、空に向かってそびえ立つイチョウの独立樹があります。
 巨樹のまわりの草地は刈り込まれ美しく維持されていて、この巨樹を眺めるにも、近くの棚田や遠い山並みを眺めるにも実に気持ちの良い場所です。正面は五家荘など九州中央山地の北端が緑川に落ち込む急峻な斜面で、右に内大臣峡谷が向こうに入り込んでいるのが見えます。左が緑仙峡と呼ばれる緑川源流の谷で、宮崎県や五家荘との分水嶺まで広がる森林は大官山(だいかんざん:大きな国有林の意)と呼ばれた原生林でした。この緑川の水源を育んできた大官山の原生林も長年の伐採により大きく減少しましたが、まだ峡谷の奥には現在でも手つかずの森林が残されています。
 周囲に見える棚田は、後で詳しく述べますが、通潤橋から導かれた水で潤っていて、地域の人々が総力を挙げて作り上げた知恵と汗が結晶した姿です。その自然と人々の営みの全てを見渡すように、このイチョウが佇んでいます。近くに寄って幹に触れて上を見ると、多くの枝が複雑に曲がって絡み合うように伸び、びっしりと葉が茂っています。これだけ高くそびえているのに落雷などの被害を受けていないのは、ここが大きな谷の中に突出した小さい尾根で、棚田が作られている両側の斜面の高いところにある尾根に包みこまれているので、風や雷の被害から守られてきたのでしょう。
 近くに阿蘇家の出城で、緑川を介して、平野部と矢部地方や阿蘇への陸路を結ぶ重要な拠点であった愛藤寺城(あいとうじじょう)跡があります。このイチョウは、阿蘇大宮司がこの地を治めていた頃、城主だった犬飼氏が、水不足で収穫の少ない米を補うため、栄養価が高くて保存しやすい「ぎんなん」を収穫するために植えたと伝えられています。昔は薬や食糧にしたりして貴重なものでしたが、現在でも地区の人たちによって収穫され、「ここのぎんなんを食べると長生きする」といわれています。樹の横には長寿観音が祀られ、樹の周辺は住民の交流の場、憩いの場、信仰の場として大切にされ、いつもきれいに掃除されています。なお、愛藤寺城は天正16年(1587)から慶長5年(1600)にかけて肥後の南半分を領有した小西行長の支配下におかれました。キリシタン大名として有名だった小西ですが、戦後、愛藤寺城跡の畑から十字架の文様が入ったクルス(十字架)瓦が発見され、町の文化財に指定されています。関ケ原の戦いの後、この城は加藤清正が支配を引き継ぎ、熊本城の天守台と同じ積み方の石垣が見られます。

■矢部茶と巻柿の里
 犬飼地区は昔から矢部茶の生産が盛んでした。集落の周辺、通潤橋からの水に潤される棚田よりも高い場所には茶畑が広がっています。矢部地方は県内でも有数の茶の産地で、古くから釜煎茶の生産が盛んでした。近年は機械化が難しい釜煎茶の生産は全国的に減少し、矢部地方も例外ではありませんが、今でも釜煎り茶の生産が続けられています。
 また、ここは「巻柿の里」と呼ばれるほど巻柿の生産が盛んで、秋から冬にかけて干し柿を作るために皮を剥いた渋柿がたくさんずらりと並んで下げられている風景が見られます。巻柿は、干し上がった柿の種子を外し、果肉の部分を竹の皮で包みます。最後は藁でくるんで巻いて仕上げます。それを九州山地から吹きおろす風が乾燥させ、さらに巻柿の味を深めます。藁を外して羊羹のように輪切りにすると、飴色に重なった柿の果肉の境目に白い模様ができていて見た目にも美しい、上品な甘さの菓子で、矢部茶にぴったり合います。

■白糸(しらいと)台地を潤す通潤橋
 約150年前に造られたわが国最大の石造のアーチ型の橋で、国の重要文化財に指定されています。高さ20.2メートルで長さ75.6メートル、幅6.3メートルの一拱式(いっきょうしき)眼鏡橋で、アーチの直径は28.1メートルです。
 通潤橋は、谷で隔てられて水の少ない白糸台地に阿蘇外輪山側の水を運び、豊かな水田を開くために架けられた水道橋です。当時矢部郷(旧矢部町と清和村の約半分)の総庄屋であった布田保之助(ふたやすのすけ、1801~1873)が中心になって計画し、地域の総力と当時の土木技術を結集して嘉永5年(1852)から1年8カ月の歳月をかけて完成しました。その間、橋の設計・施工に関わる技術的な問題だけでなく、この事業を推進するには一つ一つ解決して具体に対処しなくてはならない問題が山ほどありました。まさに地域の人々が全力を挙げて取り組んだ大プロジェクトだったのです。
 通潤橋は手前の方に入った水が下がって同じ高さまで上がってくる連通管の仕組みを利用しています。水路の上流側から橋の部分で7.5メートル下がり、それが橋を渡り終わった下流側で再び噴き上がる構造です。そのおかげで、前後の落差は1.7メートルしかありません。その高さのまま一直線に繋ぐ水路の橋にするには、橋全体の高さを現在よりも10メートル上げて30メートルくらいの高さにしなければなりません。連通管の仕組みをうまく使った、いかに画期的な工事であったかがわかります。
 通潤橋は橋の両側に放水をする姿が有名で、そのため放水するための橋と誤解している人もいます。もともと放水は一年に一回行うものでした。連通管で橋の中央部が一番低くなっているため、一年間導水すると最低部に土砂がたまります。それを排出するために放水するのをみんなが見物に訪れていたのです。しかし、最近は放水を見たがる人が増え、サービスとしての放水をするようになったので、誤解が進んだ面もあります。

■水を集め、届けるための知恵の数々
 白糸台地を潤すためには、まず外輪山裾野の水を橋まで運ばなくてはなりません。そのためには橋よりも何キロメートルも先から裾野側の水田で使っていた水を取りすぎないように配慮しながら作る導水路が必要でした。水路を掘削するにしても、谷筋とは別のルートを作るのですから、導水路の約半分はトンネルになります。
 通潤橋への分水起点には、昭和31年(1956)に作られた円形分水があります。円形の中心に上流からトンネルで導いた水を噴出させ、水平の作られた円形の周囲全体から水が溢れるようにして、それを2箇所の仕切りで分け、いつ誰がみても決まった量が双方に公平に流れることがわかる仕掛けです。現在、通潤橋を渡る水に7割、橋の手前の笹原地区で使う水が3割と、正確に分水していることが見える施設です。
 円形分水からすぐトンネルに入る水路には、通潤橋を通る水だけが流れます。この水路のトンネルを、30年ほど前にヘルメットをかぶり救命胴衣を着て、重装備でゴムボートで下る冒険をした人たちがいます。矢部高校の先生が仲間とトンネルに住む動物を調査するためでしたが、暗いトンネルへの水路に入っていくときには、トンネルの中にどんな凸凹があるかわからないので不安だったそうです。そして、水路がギクシャクしたところがなくスムーズに流れるように精密に作られているのに驚きました。途中時々トンネルが途切れても、すぐ次のトンネルに入り水路が一定の勾配で繋がっていることに感嘆したのです。現代のように精密機器のない時代に、どのように測量し、どのようにして設計どおりの工事ができたのか、驚くべきことです。
 下流側もまた橋を渡った後の水が噴き出してくる姿に驚きますが、それが白糸台地の118ヘクタールの水田の一枚一枚に届けられる構造は素晴らしいの一言につきます。白糸台地の開田は平らなところではなく山の斜面を開発して棚田を作る開田で、こちらでもトンネルを掘って、大動脈から細い動脈を経て毛細血管が体中の細胞に血液を運ぶように、配水しています。通潤橋架橋は、橋だけではない大事業だったのです。それを進めた布田保之助は、地元では今でも神様といわれ、布田神社に祀られて、地域の厚い崇敬を受け続けています。


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