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  老樹名木詳細
 
肥猪の枝垂桜(こえいのしだれざくら)


■桜色の羽衣をまとったような優美な姿
 関町から国道443号を山鹿(やまが)に向かい、南関第三小学校を過ぎたころから注意して進むと、左手に理髪店、右手にコンビニエンスストアがあり、「佛照寺」の案内板がある相谷(あいのたに)交差点に出ます。そこから右折して「佛照寺」の案内に従って行くと、肥猪(こえい)の集落に入ります。佛照寺から右手の小道を歩いて行くと、花の時期には民家の屋根の上に、大きな花火がどんと開いて枝垂れたように花をつけたシダレザクラが見えてきます。門の外からも見えますが、近くで見たいときには個人の住宅の庭にある樹ですから、きちんと挨拶をして許可をいただくことが大切です。
 ここは福田春蔵(しゅんぞう)が開いた福田塾(肥猪義塾または翼々舎ともいう)の跡で、今も肥猪義塾の看板と春蔵直筆の掛け軸が残されています。春蔵は肥猪の生まれで、長じて山鹿の惣庄屋となりましたが、明治3年(1870)に藩政改革により庄屋制がなくなると郷里に帰り、明治4年(1871)ここに肥猪義塾を開きました。その時に持ってきたシダレザクラを植えました。塾には教えを請う若者が各地から集まりましたが、春蔵は明治9年(1876)に病のため亡くなりました。春蔵は宗不旱(そうふかん)の母方の曽祖父にあたり、不旱の墓参りの句があります。春蔵の死後、間もなくシダレザクラも枯れ、その株に芽生えた「ひこばえ」が育った二代目がこの樹です。
 花の時期にはライトアップが行われ、近所の人たちもみんなで夜桜を楽しみます。このお宅には文化財にも値する学問部屋も残っていたそうですが、残念なことに建て替えられて現在は残っていません。

■シダレザクラを科学する
 枝垂桜は、植物学的に言えばイトザクラ(糸桜の意)というエドヒガンの変種ですから、細い枝がほとんど垂直に垂れる以外は、母種のエドヒガンと花の形やその他の形質に違いはありません。しかし、枝垂れる姿が好まれて大切にされることが多く、加えて、母種と同じように寿命が長くて大木になるので、各地に名木があります。
 枝垂桜の枝は、何故どのようにして長く垂れ、独特の「枝垂れ」という形になるのか。これは、枝の上側の伸び方と下側の伸び方が違う、つまり成長の速度に差がある「偏差成長」から起こる現象ではなくて、枝全体の成長が早いので枝が細く長く伸び、その枝や葉の重さで垂れ下がった形のまま枝が固まってしまうからです。その後は、垂れ下がった形で枝がますます長く伸びて茂り、さらに立派な枝垂桜になってきます。
 近くには、町内に、県指定天然記念物の樹齢500年の「大津山下ッ宮の椋(おおつやましもつみやのむくのき)」、町指定天然記念物の樹齢400年の「小原の石櫧(いちいがし)」、樹齢300年の「乙丸の黐(もちのき)」があり、隣接する和水町(なごみまち)には、県指定天然記念物の樹齢800年の「上十町権現(かみじっちょうごんげん)の石樫」、樹齢800年の山森阿蘇神社の樟があります。
 また、南関町には嘉永5年(1852)に完成した国指定史跡「豊前街道南関御茶屋跡」があります。肥後藩主細川公が、参勤交代や領地巡視の折に休憩、宿泊したものです。現在は町民ボランティアにより管理、運営されています。修復にあたっては建てられた当時の材料・工法などが忠実に再現されました。今年、県産材を利用した優れた施設を顕彰する県のコンクールで特別賞を受賞しています。
 400年の歴史を誇る国指定伝統的工芸品の小代焼(しょうだいやき)も有名で、南関町には古くからの窯跡が多く残ります。現在もいくつもの窯があり、その深い美しさが好まれ、茶器や花器、食器として暮らしの中で愛用されています。
 隣町の和水町には、国指定史跡「江田船山古墳(えたふなやまこふん)」があり、出土品は国宝として東京国立博物館に保管され、日本古代史上貴重なものです。


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