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  老樹名木詳細
 
花畑公園の樟(はなばたこうえんのくすのき)


■クスノキに突然訪れた危機
 熊本のバス路線の要となる熊本交通センターの東側、繁華街との間にある花畑公園のほぼ中央にそびえるクスノキの大樹です。県内の老樹名木の中で最も分かりやすい、アクセスのよい場所にあります。大きく枝を張り豊かに葉を茂らせている森の都熊本のシンボルです。35年前に大きな危機が訪れ、枯死しそうになりました。多くの人の熱い思いと関係者の夜を日につぐ介護によって奇跡的ともいえる復活をした樹です。
 昭和48年(1973)の夏は暑く、日照り続きで雨の無い日が続いていました。その猛暑の中、8月10日にクスノキの葉が一部変色しているのが発見されました。数年前から樹勢の衰えを示す異変は起きていたのですが、それまでは枝先の葉が落ちるか茂り方が悪くなる程度で終わっていました。そのため一時的な現象でしばらくすれば回復するだろうと考え、まさか生死の境をさまよう事態になるとは誰もが考えませんでした。しかし、その1週間後には葉の変色が急激に進行し、10日も経つと全体の2割くらいの葉が変色して遠目にも目立つようになり、その後ほとんどの葉が茶色になって緑の方が少ない状態になってしまいました。

■役所も県市民も一体となって取り組んだ蘇生行動
 熊本市公園課は、日照り続きの猛暑とクスノキの老化に排気ガスの影響が加わって根の吸水力が衰えたと考えて、20日の午後から灌水を始めました。しかし、水が地表を流れて地中に浸透しないので、地面に穴をあけて注水する方式に切り替えました。ところが驚いたことに、スコップでは穴が掘れないほど地面が固くてツルハシでもはね返されるほどでした。また、出てきた根はカラカラに乾いていました。穴の底まで土が白く乾いていて湿り気が全くなく、ホースで注水しても土が茶色に変わるだけで水が溜まらなかったのだそうです。
 このようにして22日までの3日間で掘られ注水された穴の数は500以上、水道の蛇口が少ないので24時間作業で注水を続け、それでも絶対量が不足するので清掃課のゴミ収集トラックを夜間に借用し、消防署で満杯にした大型ポリタンクで水を運びました。その間に雨は一滴も降らず、3日間で花畑公園に注ぎこまれた水は約20トンになりました。20トンの水は大きい数字のようですが、公園の面積2600平方メートルにならせば7~8ミリの雨が降った程度です。
 この頃になると、この事件は熊本市だけでなく全県を挙げての関心事となり、毎日朝早くから夜遅くまで多くの人が現場を訪れました。その人々は絶対安静を命じられた病人を見舞うように、クスノキの容態と救護作業の進み具合を立ち入り禁止のロープの外から見守り続けました。事態を重く見た熊本市は、クスノキ蘇生のために市長専決処分で270万円の支出を決めましたが、これはその後市議会で何の反対もなく承認されました。クスノキの健康回復がいかに強い市民の支持を受けていたかを示すものです。
 熊本市が全力を挙げて蘇生に取り組むことになって散水用の水道工事が行われ11日間で約310トンの水が灌水されました。また、徹夜で公園内を全面耕起する作業が行われ、続いて土には54,000リットルのピートモスを鋤き込む土壌改良や、樹幹には筵(むしろ)1500枚を縄400巻を使って巻く養生作業も行われました。何故幹全体を包むかというと、葉の大部分を失って樹全体が裸のようになっていますから、直射日光によって幹の中で最も大切で盛んに活動している樹皮が日焼けをしたり、冬には寒風に曝されて傷害を受けたりしないための養生なのです。

■クスノキに奇跡が起こった
 そこまでの処置が済みましたが葉の変色と落葉はいつまでも続き、ほとんど丸坊主になって弱々しい葉をつけただけの姿になってしまいました。その後も大勢の市民が見舞いに訪れ、立ち入り禁止のロープの外から見上げながらクスノキの蘇生を祈りました。昭和20年の熊本大空襲で焼野原になった街の中心部で、この樹だけが緑を湛えて市民の希望の灯となった記憶も重なって、親しい人の大病を見舞うのと同じ気持ちだったのでしょう。
 翌年の春、熊本城のクスノキの若葉が萌え立つころになっても、この樹は芽吹きませんでした。それで、芽立ちの問題についても「森の都推進会議」の専門部会による調査と討議が行われ、絶望的な容態ではなく芽の形成が遅れているのだろうとの結論になりました。心配しながらも希望を持って待つことにしました。7月になって高所の発芽状況を調査した結果、巻いた筵の下に不定芽(ふていが:本来芽が出る場所と違うところにできた芽)が伸び出しているのが確認され、その後小さいながらも梢の先にも芽立ちが見られるようになりました。
 この年の夏を無事に乗り越えられるか否かが生死の分かれ目なので、樹勢の回復と天候の推移が最大の関心事でした。暑い夏の間、徐々にですが葉の量が増え緑の色も濃くなって危機を脱したことが見えるようになりました。その翌年の春は、熊本城などのクスノキと同時に新芽が芽生え、まだまだ貧弱とはいえ梢のあちこちに団子状に茂るようになりました。奇跡が起こったのです。それから30年、ゆっくりとした速度でしたがクスノキは完全に健康を回復し、その後熊本市を幾度も襲った大きな台風にも耐え抜きました。「目に見えにくい根の大切さ」を命をかけて教えてくれた花畑公園のクスノキは、森の都・熊本の緑のシンボルとして堂々とした姿で立っています。

■代継(よつぎ)宮
 このクスノキがそびえる花畑公園は、現在は熊本市龍田陣内(じんない)の立田山の北尾根に遷座している代継神社の跡地だったところです。この神社は応和元年(961)に住吉大神を主神とし、時の国司紀師信(きのもろのぶ)が奉祀した由緒ある社です。当時4本のご神木を植えたので「四ツ木宮(よつぎぐう)」と称したといわれ、花畑公園の樟はそのご神木の名残りと伝えられています。
 加藤清正が熊本城を築いたとき、城の南にあたるこの地に花畑邸を設け、四ツ木宮を東の白川左岸に移しました。この神社は加藤家と細川家の崇敬を受け、とくに細川家は歌道の家ですから歌聖紀貫之(きのつらゆき)を合祀し、天明3年(1782)に細川家初代の細川藤孝(幽斉)も合祀するなどして手厚い待遇をしました。さらに、幼くして家を継いだ第5代細川綱利(つなとし)は、四ツ木宮をとくに尊崇し、社名を「代継」と改めた額を奉納して以後「代継宮」が正式の名となりました。白川に架かる代継橋もこの神社に由来する名称ですが、神社は昭和の終わりごろに龍田の現在地に遷座しました。
 花畑邸は城外に作られた藩主の邸宅で、代々藩主が日常の生活を送るところとなっていました。明治維新の廃藩置県後は周囲の広場とともに軍の施設となり、そのため現在の花畑公園には軍関係の記念碑が、歴史遺産として残されています。連隊が次々に大江に移り、昭和2年(1927)からは熊本市が公園として管理をするようになりました。その後、普及し始めたラジオがクスノキの横に設置され、科学の進歩を示す声を聞きに市民たちが集まっていた時代もありました。戦後は市街地の中心にある利点から各種行事の集合場所として盛んに利用されました。
 しかし、そのことによって公園の全面が長年にわたって踏み固められ、根の呼吸や吸水を妨げてクスノキが生死の境をさまよう事態を招いたのです。その教訓から、人が通る範囲を制限して根を養生しているのでクスノキは以前よりも健康になり、ますます大きな緑陰を提供しています。ここでは毎年10月の第2土曜日と日曜日に、熊本を誇りに思い熊本に暮らす喜びを共感しようと、竹灯籠(たけとうろう)を使った明かりの祭典「みずあかり」が行われています。


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