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  老樹名木詳細
 
鉄砲小路の椿(てっぽうこうじのつばき)


■鉄砲小路の生垣に彩りを添える赤い花
 鉄砲小路の東端にある林家の裏庭にあるヤブツバキの大樹です。早春には赤い花を数多く咲かせて鉄砲小路の濃い緑の垣根に彩りを添えます。ヤブツバキは防火の意味もあって屋敷の周囲に植えられたそうですが、貴重な椿油を搾る材料となる実を収穫する木として大切にされました。しかし、現在まで大きく育って残っているのはこの樹だけです。ヤブツバキは我が国の暖地に広く分布する常緑広葉樹ですから、多くの人にとって珍しくない見慣れた木です。ただ、このように大きく育ったヤブツバキは珍しく、鉄砲小路の変遷を350年間も見守り続けて、今も毎年見事に花を咲かせています。
 ヤブツバキの花は、花びらと雄しべが基部でくっついているので、散るときには雄しべまで一緒にぽとりと落ちます。夏目漱石が「落ちざまに虹を伏せたる椿哉」と俳句にした散り様で、落椿(おちつばき)が散り敷いた姿も風情があり、落椿を拾って糸で繋いで首飾りにして遊んだりするなど、多くの人にとって馴染み深い樹木です。熊本を代表する民謡・五木の子守唄にも「花は何の花 つんつん椿 水は天から貰い水」と歌われています。
 また、「赤い椿の・・・」と歌われるように、身近な低山丘陵で早春も早い時期から赤い独特の形の花を咲かせます。花が赤いのは、花粉を小鳥たちに運んでもらう鳥媒花(ちょうばいか)であることと大きく関係しています。黄色や青が良く見える昆虫と違って、鳥は赤い色が良く見えます。ヤブツバキが咲く早春は昆虫が活発に動き出す前ですから、昆虫を相手にするよりも鳥に花粉を媒介してもらう方が有効なのです。ヤブツバキの花の中にメジロなどの小鳥が首を突っ込み、頭を花粉だらけにしている姿はよく見られます。その頭で別の花の蜜を吸いに行けば、そこの雌しべに花粉が付いて受粉し、受精が行われます。蜜は花の基部にたくさん溜まっていますから、子どものときに吸った思い出のある人も多いでしょう。甘いお菓子が溢れている現代と違って、甘味に飢えていた昔の子どもは麦藁を使って上手に蜜を吸っていました。

■椿は「春を代表する木」
 ツバキは漢字で書くときに「椿」と書くのが普通です。しかし、椿は中国ではチャンチンという中国の北部と中部に分布するセンダン科の落葉高木を指す字で、日本のツバキとは似ても似つかない植物です。日本人は春を代表する木という組み合わせの意味で使います。秋を代表する草という意味で萩という国字を使うのと同じです。
 ツバキの材は堅く、腕くらいの太さの枝があると独楽を作ることができます。地中の鉄分を吸収して材の中に塊ができるので、木工時にその塊にのみの刃が当たると刃が折れることがあります。そのため「のみとりの木」と呼ばれています。

■古来より好まれたツバキ
 ヤブツバキを園芸的に改良したものがツバキで、日本が作り出した園芸植物の中で最も重要なものの一つとなり、その名は世界に轟いています。日本人は古くから山野に自生するヤブツバキを、実用だけでなく鑑賞の対象にしてきました。万葉集にも登場しますが日本書紀には天武帝の13年(684)に吉野から「白海石榴(しろつばき)」が献上された記述があり、古い時代から野生と異なる白花のような形質が尊重されていたことがうかがえます。わが国でツバキの栽培が盛んになったのは徳川時代の始めからで、家康公がツバキを好み二代将軍の秀忠公が江戸城吹上御殿の庭にたくさん植えたことがきっかけになったといわれています。元禄時代(1688~1703)になるとツバキを鑑賞する楽しみは庶民にまで広まり、庭木・盆栽・切花としての目的に応じて多くの品種が作られました。その中心は江戸や京都ですが、熊本でも日本を代表するツバキの一つである肥後椿が作られました
 ツバキがヨーロッパに紹介されたのは1712年ですが、1739年に実物が届いてヨーロッパの人々は初めて見た花に驚嘆しました。その後、いろいろな品種のツバキが書籍や実物で紹介され、憧れの東洋の美しい花の代表になりました。歌劇「椿姫」の誇り高きヒロインのシンボルであるツバキの花は、そのような背景の中の花であって、裏山のヤブツバキと似たような感覚で考える日本人の価値観とは大きくかけ離れた、パリ社交界の華にふさわしい豪華な花だったのです。

■全国に知られた大津街道の杉並木
 鉄砲小路から南を眺めると、現在は国道57号と豊肥本線が走っている豊後街道と、その両側にある杉並木が見えます。この付近では豊後街道を大津街道と呼ぶので、普通は「大津街道杉並木」と呼ばれています。文政元年(1818)にこの地を訪れた頼山陽(らいさんよう)が「大道平々砥も如かず 熊城東に去れば総て青蕪 老杉路を夾んで他樹無し 缺くる処時々阿蘇を見る」と、阿蘇を眺めながら讃えた美しい杉並木で、「肥後の大杉並木」として全国に知られました。現在でもその面影を残す杉並木が約12キロメートルにわたって残され、菊陽町のシンボルとして大切にされています。
 大津街道は凹道(おうどう)になっていて、杉並木のある面より一段低く街道が作られています。これは軍隊の移動が見つからないようにだとか、いざというときには杉を切り倒して道を塞いで防ぐためだとかいわれますが、凹道にしたのはその形が維持管理するのに一番都合がよかったからです。その凹道の中に、現在は旧国道57号とJR豊肥本線が並んで通っているのですから、街道として随分余裕のある設計でした。昭和61年(1986)に「日本の道百選」に指定されています。
 この杉並木には、400年ほど前に肥後の北半分を治めた加藤清正公が屋久島から取り寄せた杉を植えたという言い伝えがあります。清正公は豊後街道を、肥後と中央を結ぶ重要な道として整備し、歴代の細川藩主もまた参勤交代の道としてその維持に努めました。大津町の文化ホールには、参勤交代の行列を描いた陶板画があります。
 大津から二重峠(ふたえのとうげ)への杉並木は、明治維新後に藩の管轄を離れて伐採されてしまいました。現存する菊陽町に最も多く残る杉並木も、近年車の排気ガスなどの影響で枯れたりしたことから、昭和62年(1987)に地域の人たちがこの歴史的遺産を守ろうと屋久島から屋久杉の幼杉を取り寄せ、補植しました。これが縁となって縄文杉で有名な屋久町との交流が始まったそうです。


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