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正観寺の樟(おにきざきのあこう)


■菊池武光公(正観公)の墓じるしとして有名な大楠
 菊池城山の麓、菊池温泉街に隣接する場所に熊耳山(ゆうじざん)正観寺(しょうかんじ)があります。その境内の西北隅に、樹齢600年で菊池家第15代菊池武光(たけみつ)の墓標として植えられたと伝えられる、大きなクスノキがそびえ立っています。幹囲7.5メートル、樹高34メートルで、地上10メートルほどのところで4本の大枝に分かれ、大きく枝を張っています。太い幹は赤みを帯び、遠くから見るとアカマツと錯覚すると言われてきましたが、最近は赤みが減少したように感じます。そして、その太い幹には、注連縄(しめなわ)が巻かれています。
 この樹の下には、正観公〔武光の諡(おくりな)〕の勤王精神や勲功を顕彰するため、江戸時代に建てられた正観公神道碑があります。亀の背に乗った一風変わった型式ですが、神戸の湊川神社内にある南北朝時代の忠臣・楠木正成の墓碑である神道碑を模して作られました。なお、楠木正成の神道碑は、天下の副将軍・水戸光圀が建てたものです。
 この正観公神道碑は、天明2年(1782)に菊池文教の基礎を築いた渋江紫陽(しぶえしよう:書家・儒学者)が呼びかけ、宗傳次(そうでんじ:酒造業、社会救済、慈善公益活動に活躍)が資金を提供し、藪孤山(やぶこさん:儒学者。肥後藩校時習館第2代教授)が碑文を書いて建立されました。
 このクスノキは、後で述べるような活躍をした尽忠菊池一族の墓を抱きかかえるように静かに佇(たたず)んでいます。熊本県の天然記念物に指定されており、菊池市のシンボルともなっています。

■菊池一族の菩提寺・正観寺
 正観寺は菊池一族の菩提寺として、興国年間(1340~46)に菊池武光が創建した臨済宗の寺です。しかし、境内の地蔵堂周囲に「正観寺の礎石群」(県指定史蹟)があって、古代の布目瓦が出土していることから、平安時代後期から寺院のあった場所と考えられています。正観寺には、武光のほか、13代武重、16代武政などの墓もあります。
 正観寺創建の由来は、南北朝時代に南朝方の楠木正成・正行(まさつら)父子の有名な「桜井の別れ」(1336年)に先立つこと3年、元弘3(1333)年、博多で討ち死を覚悟した12代菊池武時が13代武重を故郷に帰した「袖が浦の別れ」に遡ります。菊池に帰った武重は武時の遺訓どおりに菊池家を再興し、一族の団結を求めて菊池家憲(きくちかけん)を作り、箱根における菊池千本槍の武勲などで知られていますが、その別れのときに幼少だった第9子武光は、博多にある臨済宗の聖福寺にかくまわれました。その後、武光は無事に菊池まで送りとどけられましたが、その恩に報いるために聖福寺の大方元恢(たいほうげんかい)和尚を招いて正観寺を創建したのです。
 この正観寺は、征西将軍宮懐良(かねなが)親王の命により、菊池五山よりも一段上に格付けされた寺です。菊池五山は、鎌倉五山や京都五山にならって定められました。「五山」は、いずれも禅宗の寺院で、当時の禅僧が武家や公家に与えた精神的、学問・文化的な影響は大きいものがありました。武光は、それを菊池でも定めて、大いに学問や文化を高めようとしたのです。
 菊池五山は、東福寺、西福寺、南福寺、北福寺、大琳寺の5寺です。このうち、南福寺、北福寺、大琳寺の3寺は現在、無住となっており、地域の方々が管理しています。
 正観寺には、開山の秀山元中(しゅうざんげんちゅう)和尚や大方元恢和尚の画像(ともに県指定文化財)や市指定文化財の木造地蔵菩薩座像(室町後期の作)もあります。

■筑後川の戦い(大保原の戦い)
 武光が征西将軍宮懐良(かねなが)親王を菊池にお迎えしたことで、菊池に征西府が置かれ(1348~1361)、南朝軍は九州全土で大いに武威を振るいました。その中で最大の合戦が、「筑後川の戦い」です。
 正平14年=延文4年(1359)7月、武光ら南朝軍4万余騎と小弐頼尚(しょうによりひさ)率いる北朝軍6万余騎が、筑後川の大保原(おおほはら・福岡県小郡市)で戦いました。8月6日に武光が仕掛けた夜襲から10時間に及ぶ全面衝突となり、懐良親王も敵陣に突入して重傷を負うほどの激戦となりました。親王の負傷を知った武光は敵本陣に切り込み、多数の死者を出す大激戦の末、南朝軍が勝利しました。
 この古戦場には、武光が血にまみれた太刀を洗って川が真っ赤に染まったという大刀洗川や、菊池渡り、大将塚、千人塚などの戦いの跡を物語る地名が今も残っています。
 この故事からついた大刀洗の名は、現在も町の名称になっており、戦時中は陸軍の大刀洗飛行場も置かれていました。また、同町には、昭和12年(1932)に建てられた武光の銅像もあります。
 この戦いの2年後に、南朝軍は太宰府を占領し、征西府を移しますが、これが九州南朝方の最盛期だったと言えます。この後の太宰府攻防戦で武光は負傷し、その傷が原因で文中2年=応安6年(1373)11月16日に亡くなりました。武光の勇姿は、正観寺からすぐ近くの市民広場に建つ銅像に見ることができます。
 この合戦について、頼山陽(らいさんよう:江戸時代後期の漢学者)は、「帰来川水に笑って刀を洗えば、血は奔湍にほとばしって、紅雪をふく」とうたい、乃木希典(のぎまれすけ:明治の軍人、陸軍大将で明治天皇に殉死)は、「そのかみの血しおの色とみるまでに、紅葉流るる大刀洗川」と詠んでいます。

■クスノキの話1、樟脳とカンフル
 クスノキは学名をCinnamomum camphuoraといいますが、学名の後半部分(種小名という)のカンフォーラは樟脳のことで、アラビア語に由来する言葉です。ギリシャ・ローマの世界が東洋にしか産しない樟脳が重要な薬品であることを、アラビア商人を通じて知り輸入していたことを示すものです。その薬効は、現在の日本語でもカンフルという言葉が、勢いの衰えた物事に再び力を与えるもの、という意味で使われているほど重要で有名な強心興奮薬だったのです。また、皮膚に浸透しやすく局所の刺激や充血を促す作用があることから、チンキ(アルコールに溶かした薬)や軟膏として神経痛や打撲症や寄生性皮膚病にも使われてきました。
 クスノキは本州南部から四国・九州、それに台湾と中国南部に分布する樹木で、その地域でしか樟脳を作ることはできません。ですから、樟脳が地中海世界まで運ばれるには随分長い旅が必要です。その仕事を船乗りシンドバッドのようなアラビア商人が行い、アラビア語の名前で売っていたのですから、随分高価なものだったと思われます。日本人が樟脳を高価な薬だとは考えずに、防虫剤として考える傾向が強いのは、世界最大の産地に住んで昔から生活の中で多用してきたからでしょう。
 樟脳の生産は、第二次世界大戦前は台湾が中心でしたが、戦後は県内でも各地の山中に蒸留小屋を作って盛んに行われていました。その後、欧米の先進工業国で合成樟脳が製造されるようになり、県内での天然樟脳の生産は見られなくなりました。しかし、樟脳生産を目指して植えられたと考えられるクスノキの林は、現在でも県内各地で見られます。


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