■寺の境内を覆い尽くすような樟の巨木
菊池公園から歩いて5分、立町通り沿いにある日蓮宗妙蓮寺の境内にあるクスノキの巨樹で、山門をくぐって見上げると寺の全体を覆うようにそびえ立っています。この樹を探しながら通りを歩いてきたのに、歩いている間は民家に遮られて梢が見えていたのに気づかず、山門を入った途端に全体の姿を目前にしてびっくりする樹です。
山門から本堂に向かう右側にあり、幹囲7.8メートル、樹高33メートル、枝張り東西30.3メートル、南北31メートルの巨体に圧倒されます。地上10メートルほどの高さで6本に分かれた枝が広く大きく広がっています。また、その巨大な根元には、いくつもの墓石が巻き込まれていて、その生命力の旺盛さと積み重ねてきた年輪の重さを感じさせます。近くまで寄ることができますから、樹肌に触れ、抱きついて見上げ、大きさと力強さを実感してください。
正等山妙蓮寺(みょうれんじ)は、寛永8年(1631)に日円上人の開基で、熊本市の本妙寺の末寺として建てられたと言われています。この寺は、もともと隈府(わいふ)切明(きりあけ)にありましたが、寛文12年(1672)の大火で類焼して焼失し、百余年を経た安永8年(1779)、現在地の隈府立町に、宗傳次(そうでんじ)が私財を投じて再建しました。その後も、明治27年(1894)に再度本堂を焼失しましたが、宗傳次からの寄進物を一部売却して、現在の本堂が再建されています。
なお、明治27年に本堂が火災にあった際、この樹の西側の枝が焼け落ちましたが、現在は、着生植物や蔓植物の葉に覆われて傷痕はあまり見えません。
■妙蓮寺に眠る菊池の偉人たち
宗傳次(1731~1827)の墓は、山門をくぐって参道の左側にありますが、傳次は渋江紫陽に学び、農事や商業に励み、特に酒造業で財を築いて社会救済・慈善公益活動に幅広く貢献し、俳句などの文雅風流を好む人でもありました。
また、寛文12年(1672)から文久2年(1862)までの190年間にわたって、当時の農産物の価格や作柄、周辺で起きたさまざまな出来事、藩主や奉行、庄屋の動静などを記録した「嶋屋日記」の執筆者の一人でもあります。嶋屋は傳次の実家の屋号で、この日記は江戸時代後期の菊池における「時の話題と庶民の暮らし」を記録した貴重な資料です。「嶋屋日記」は全8冊の膨大な資料ですが、その2冊目が傳次の執筆です。
宗傳次の主な事績としては、菊池武光の神道碑を正観寺境内に建立、法華経一字一石塔を菊池城跡に建立、妙蓮寺の再建建立などがあります。また、零落した者や自然災害の被災者救助のため、金銭や米麦などの寸志を出すこともたびたびでした。
また、この樹の下には、「神風連(しんぷうれん)の乱」の志士・吉村義節(ぎせつ)の墓があります。この乱は、明治9年(1876)10月24日の夜、敬神党(神風連とも呼ばれた)の武士たち170人が、西洋の技術や文化を次々に取り込む政府の欧化政策、特に廃刀令や断髪令に強く反発して刀剣と槍だけの武装で、熊本鎮台や県の要人たちを襲撃した事件です。吉村義節は、県令・安岡良亮(よしあき)邸に斬り込んだ中心人物でした。
義節は、菊池市隈府の出身で、敬神党の中でも特に正義感が強く、小兵ながら武芸に秀(ひい)でていました。家は貧しかったが私欲はなく、文武に励んで、大事が起きたとき遅れを取ってはならぬと、常に準備を怠らず、周囲から慕われ尊敬されていた人物です。
神風連の武士たちは日本古来の伝統を重んじ、西洋の技術を安易に導入すれば日本の精神は毒されて滅んでしまう、このまま見過ごすことはできないとの思いで蜂起したと言われています。「日本談義」主宰の荒木精之は、「神風連実記」の序文に、「彼ら(神風連)は、(中略)… ただやむにやまれぬ日本魂(やまとだましい)の発露であった。そこには露ばかりの利害打算も成敗利鈍もなく、清浄無心、無垢献身があるばかりであった。」と記しています。
吉村義節は、事変後に切腹しましたが死にきれず、捕らえられて斬罪となりました。なお、妙蓮寺の墓碑は、昭和12年に立町中央会により建立されたものです。
■クスノキの話2、シナモン
クスノキは学名をCinnamomum camphuoraといいますが、学名の前半部分(属名という)Cinnamomumは、現在では日本でも生活の中に定着している香辛料シナモン(肉桂)の語源で、「佳香のある巻曲した皮」という意味のギリシャ語に由来する言葉です。贅沢に紅茶を飲むときに使うシナモン・スティックの形が、昔からシナモンの代表的な形だったのです。ニッケイは特有の芳香と、甘味及び辛烈味があって粉末や溶液の形で占い時代から健胃剤など医薬用に、また菓子や料理の香味料に広く使われてきました。その生活に大きく取り込まれた長い歴史の中で、西洋に産しないニッケイがクスノキの仲間の代表とされるようになったのです。
狭い意味でのシナモン、つまりニッケイはインドシナ半島原産の常緑高木です。しかし、インドや中国南部などに産する近縁種(たとえばセイロンニッケイ)なども、シナモン類として広く利用されてきました。ニッケイは紀元前3000年のインダス文明で利用が始まった香料植物ですが、文明と民族の移動とともに東アジアに広がりました。そして、紀元前25世紀ごろにはインドから中央アジア経由で中国に、紀元前15世紀にはニッケイがインドのビャクダンなどとともにエジプトに伝わったといわれています。その後地中海の覇者となったギリシャ・ローマが、非常に欲しがったスパイス(香辛料)がシナモンとペッパー(コショウ)で、そのことに関する話題も数多く残されています。中世になってからは、この二つにチョウジとナツメグが加わり、この4種がヨーロッパ世界が熱烈に東洋に求め続けたスパイスでした。
これらは4種とも西洋には産しませんから、東洋から遠路はるばる運ぶ以外に手に入れる方法はありません。その中間に位置するアラブ世界が陸路・海路ともにルートを抑えていましたから、その貿易による利潤が千夜一夜物語に描かれたアラビアの繁栄をもたらしたのです。その利益を一部でも、できれば全部手に入れたいという目的から、マゼランの世界一周航海もコロンブスのアメリカ大陸発見に繋がる西回り航路の探検も計画され、スパイス争奪戦はオランダ・イギリスの東インド会社に引き継がれる世界史の大きな流れになりました。
我が国でニッケイは「にっき」とも言い、また、「にっけ玉」や「にっけ水」の名でも親しまれています。享保年間(1716~1735)に中国から渡来して高知・和歌山・熊本などの暖地に植栽され、樹皮を剥いで製品にすることも行われました。香りの良い植物ですから、葉で饅頭を包んで蒸したり、子どもたちが木を知っていて根や枝の皮をかじったりなど、今も利用されています。
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