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  老樹名木詳細
 
将軍木(しょうぐんぼく)


■今なお堂々とした風格で、懐良親王に見立てられる樹
 菊池高等学校の正門に向かって左側に、堂々とした姿で立っているムクノキです。北側の幹は空洞化しているので裂けないように鉄の輪が巻かれ、空洞に雨水が侵入して腐蝕が進行しないよう、樹脂で蓋をしてあります。また、南側の道路側に伸びる大枝は鉄製の支柱で支えられていますが、樹勢は盛んでよく茂った葉は生き生きと生命力に溢れています。
 この樹には注連縄が巻かれ、樹の下には菊池神社の御旅所があります。ということは菊池神社の神木であるということですが、地元の人々から征西将軍宮懐良(かねなが)親王の身代わりとして崇敬されて将軍木と呼ばれているのです。
 懐良親王は南北朝時代に、九州における南朝軍の主力として活躍していた菊池一族を頼り、正平3年(1348)ここ隈府(わいふ)に征西府を開かせ、15代菊池武光(1319-1373)とともに九州各地を転戦、大いに武威を振るいました。親王は後醍醐天皇の皇子にあたります。武光は猛将として知られていますが、その騎馬像が将軍木から歩いて1~2分の菊池公園の市民広場にあります。
 楠正成や新田義貞など建武の新政の功労者やその後継者がなくなり、上方では足利幕府と北朝の勢いが強くなってきた時期に、菊池氏を後ろ盾にして九州を南朝の支配下におきたいという願望が南朝にはありました。また、武光にとっては下向した懐良親王を菊池の本拠地である隈府に迎え入れ、そこに征西府を置いたことが九州統一の大きな原動力となりました。
 このムクノキは親王のお手植えとも、親王が差し立てた杖が根付いたとも伝えられ、将軍木と名づけられました。親王が隈府を根拠地に活動されたことは地域の人々の誇りで、将軍木のほかにも、菊池神社の内裏尾(だいりお)には征西将軍宮の碑が建っています。また、隈府には親王が観月の宴を催したと伝えられる月見殿など、征西将軍宮に由来する遺構や伝承が残っています。
 その一つに室町時代から伝わる「松囃子能(まつばやしのう)」があって、国の重要無形民俗文化財に指定されています。松囃子能は将軍木に対面する位置にある演能場で舞われますが、この建物も県の重要有形民俗文化財に指定されています。松囃子能は懐良親王を菊池にお迎えしたときに始められた天下泰平を祈願する神事で、年頭の祝儀として正月2日に菊池城で催されたのが始まりとされています。
 現在では菊池神社の秋季大祭(10月13日)のときに神社からこの樹のところに神が移され、蓬莱三方(ほうらいさんぽう)とお神酒を供えて神事が行われたあと、この樹を懐良親王に見立てて伝統の民俗芸能「松囃子能」が荘重に奉納されます。蓬莱三方とは、三方に米を盛った上に、茗荷(みょうが)を胴にして唐辛子で頭を形どった丹頂鶴2羽と椎茸で作った2匹の亀を乗せたもので、松囃子に出てくる「千年丹頂の鶴、万歳緑毛の亀」を表現したものです。
 菊池氏は中世の肥後を代表する豪族で、文永11年(1274)と弘安4年(1281)の蒙古襲来のときには10代武房が博多に出陣して奮戦し、元弘3年(1333)に12代武時が後醍醐天皇方として博多の北条探題館を攻めて討ち死にしたのをきっかけに17代武朝まで南朝側の主力として、全国が室町幕府になびくようになっても一途に朝廷方に立って戦い続けました。元中9年(1392)の南北朝合一を迎えて武朝は肥後国司・守護の地位を保ち、19代持朝(もちとも)は筑後の守護も兼ねる全盛期を迎えました。
 樹齢600年といわれる将軍木は、菊池氏繁栄の生き証人であり、その遺産である松囃子能をほぼ当時のままの形で現代に伝えています。


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