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  老樹名木詳細
 
富岡小学校の雀榕(とみおかしょうがっこうのあこう)


■明治時代より今日まで、地域のシンボルとして愛されてきたアコウ
 天然の良港である富岡は長崎などとの海上交通の要衝で、天草の政治・経済・文化の大きな中心地でした。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで東軍についた肥前(佐賀県)唐津城主・寺沢広高が、敗れた西軍の小西行長の領地の一部であった天草の土地を与えられ、支配の拠点として慶長9年(1604)に富岡城を築きました。そのため、島原の乱の時にはキリシタン大名であった小西の残党をリーダーに農民までを結集した一揆軍は、天草の支配拠点であるこの城を激しく攻め立てました。しかし、天然の要害の地に立つ城を落とすことができず、一揆軍は島原に渡って原城に籠もったのです。
 乱の後に天草を与えられた山崎家治は富岡城を修復拡張しましたが、後に戸田忠昌によって本丸と二の丸は破却され、幕府直轄の天領となって三の丸の代官役所(陣屋)だけになりました。現在は富岡城を公園整備化して城内に富岡ビジターセンターをオープンし、富岡の歴史、文化や海中公園などの自然を紹介しています。城からの眺望は素晴らしく富岡の港や町並みを見おろせ、天気が良い日には雲仙岳が見えます。
 このような天草文化の拠点であり、全国的にも早い時期に作られた富岡小学校には、開校記念樹として植えられたアコウがあります。アコウは天草を特徴づける暖地性の常緑高木で、台風の高波や海水を巻き上げた潮風にも負けずに大きく成長し、海辺の集落を守ることで知られた樹木です。この樹のように地域の子どもたちが元気にたくましく育ってほしいとの願いを込めて植樹されたのでしょう。それから150年の年輪を積み重ねる間に学校の建物は変わりましたが、この樹は子どもたちに心地よい緑陰を提供し続けてきて、今も校庭の二宮尊徳像の横に大きな傘のように枝を広げています。
 アコウは変化に富む樹で、樹形や気根の様子などの形や葉の芽立ちの時期などの性質にも違いがあり、個性的です。とくにこの樹は学校の敷地内にあることから、安全面や眺望などを考えた剪定も受けたので、樹齢のわりには樹高がなく横に大きく広がった独特の形をしています。
 学校の歴史とともに150年間生きた樹ですから、近所には小学生のときにこの樹に登って遊んだ人も多く、地域の人々の愛着もひとしおです。樹齢を重ねて幹の周囲や枝から伸びる気根も50~60センチメートルにも伸びて、まるでマンモスの体毛のようになっています。最近は、この樹に登ろうとする子どもは少なくなりましたが、学校通信が「赤秀(あこう)」と名づけられていることから、この樹に全員が親しみと敬意を持っていることがわかります。
 近くにはふるさと熊本の樹木に登録されている苓北町の都呂呂のアコウの樹があります。
 富岡は雲仙天草国立公園の重要な部分で、天草西海岸を北上する海流によって形成された陸繋島(りくけいとう)と砂嘴(さし)は、日本三景の一つ「天の橋立」にも似た景観です。また、ここは北上する暖流の影響で、古くから県内では珍しい無霜地帯として知られ、2月頃に淡い紫色の可憐な花を咲かせる南方系植物で県の天然記念物に指定されている「ハマジンチョウ群落」があります。
 富岡には、島原の乱で処刑されたキリシタンを供養した国指定史跡「富岡吉利支丹供養碑」、安政年間(1854~1860)に2回訪れた勝海舟が書いた落書き二つが残されている「向陽山鎮道寺」、「吟詠 天草洋」を詠んだ頼山陽の詩碑、ここに宿泊して富岡を舞台にした小説「天草灘」を書いた林芙美子の文学碑などがあります。また、今年百周年を迎えた「五足の靴」の天草旅行の出発点でもあって、富岡の自然と歴史と文化に触れながらの散策が楽しめます。
 また、富岡から天草西海岸を車で走れば、最近整備が進んでいる道路沿いに、国指定の名勝及び天然記念物「妙見浦」、県指定天然記念物「大ヶ瀬・小ヶ瀬」、ロマネスク様式の「大江天主堂」、ゴシック様式の「崎津天主堂」などがあります。また、天草灘に沈む夕陽は絶景で、一見に値します。


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